FM88.8 瞑想RADIO

瞑想のある毎日。

黄色いボールにみる、瞑想と幸せのしくみ。

なんのこっちゃなタイトルですね!


きょうも、FM88.8 瞑想RADIOにチャンネルを合わせていただきまして、

ありがとうございます!

 

前回の記事では、鞍馬の信仰にまつわる文章に惹かれて、

黄色いボールの絵が浮かんだ、というお話をさせて頂きました。

 

今回は、この黄色いボールについて、瞑想という観点から

考察を加えてみたいと思います。

Let's 復習!


いま一度、鞍馬信仰の(心惹かれた)文章と、

黄色いボールについて、振り返らせてください。

 

「共に生かされている命」を共感し、
様々な命が支え合い響きあい、生かし合っていることに気づき、
私たちの「いのち」が本来、光り輝く宝珠であることに
目覚めて欲しいと願っています。

(鞍馬山のホームページより)

 

この文章を、

つながりあっていることに気がつくことは、

本来の心であり、それは、本来皆それぞれが

輝いていることに目覚めること。

というメッセージとして捉えると、次のような絵が浮かびました。

 

f:id:Yuichirokun:20160211192955j:plain

 

これは、黄色いボールである「光り輝く宝珠」の輝きが、

その境界線にある「フタ」が取れているABCには流入することで、
同じ光で満たされる=つながっている「ワンネス」という意識状態を表し、

一方境界に「フタ」のあるDEFには、それが流入していないことで、
満たされていない=つながっていない「分離」という意識状態を表しています。

 

瞑想をすることは、幸せの種を育むこと。


宇宙創造の源・絶対静寂の場を、空(くう)(=黄色いボール)として、

空に誘い、空から瞑想することのできる瞑想法に、

フルフィルメント瞑想というものがあります。

 

この空(くう)の瞑想をすることで起こることの一つを
黄色いボールを用いて表現してみたいと思うのですが、、

フルフィルメント瞑想を実習されている方には、
もはや展開がバレバレかもしれません。。

そうです、簡潔に言いますと、空(くう)の瞑想法では

黄色いボールの境界にある「フタ」を、ポーンと取ってしまうこと

もしくは、この「フタ」を、徐々に薄くしていくことに通じている

と考えられます。

いわゆる「カルマ」の特徴として、
「閉じている」「ぎゅっと固まって滞っている」というイメージがありますが、

これを、「フタ」として、ここでは一言で表現してしまいます。

 

たとえば、ヴィパッサナー瞑想では、「気づき」という光で
滞りや盲目的な反応を溶かすことで、「フタ」を取り除いてゆき、

フルフィルメント瞑想では、空(くう)や「癒し許す」存在状態に誘われるので、
閉じているものが開いたり、ぎゅっと固まっているものが解かれてゆきます。

それによって、「フタ」が取れて(あるいは薄くなっていき)、

やがて黄色いボールから流入してくるものに、気がついてくるわけですが。。

 

いったい、何が流入してくるのでしょうか?

 

それは静寂(空の性質)であったり、

霊的なエネルギーであるシャクティーであったり、様々ありますが、

そのなかでも、愛、光、エネルギーという3つの流入が、

「幸せ」ということに関係してきます。

 

この愛、光、エネルギーについて、
鞍馬信仰では、次のように言われています。

尊天(=黄色いボール)とは、人間を初め
この世に存在するすべてを生み出している宇宙生命
宇宙エネルギーです。

(中略)そのお働きは、となってあらわれ
また月に代表される水の氣、太陽から放たれる氣、母なる大地 、
地球の氣の三つの「氣(エネルギー)」にあらわし、それぞれを

月輪の精霊―愛=千手観世音菩薩
太陽の精霊―光=毘沙門天王
大地の霊王―力=護法魔王尊

のお姿であらわして、この三身を一体として「尊天」と称します。

(鞍馬山のホームページより)

 
瞑想教室においても、よくHiroki先生からお話に上がるものとして、

「光」とは、「見る」「見える」こと。

「見る」とは、「愛する」こと。
(「愛」の反対は憎しみではなく、「無関心(=見ない)」)

 

よく「見る」ことで、自分と相手の中に、または自然摂理のなかに

「愛」を見ることになる。

「愛」が芽吹き「ハート」が開くとき、「エネルギー」は流入し、

「愛」ゆえの行為がなされる。

「愛」は、すべてを幸いに進化・開花させようとする宇宙の働きそのものなので、

「愛」からの行為は、自他にとって幸いなものとなり、「幸せ」がもたらされる。

 

幸せに生きるための、もっともシンプルで、

宇宙の真理に基づいた方法は、愛、光、エネルギーという、

これら3つと、共に生きることであるそうです。

これら愛、光、エネルギーは、

上記のように三位一体として、働きかけます。

そして、これら三位一体として働く「幸せの種」が、

瞑想をすると、どんどん流入してくるわけです。

 

でも、「瞑想だけしていれば、幸せになる」かというと、
ところがドッコイ! そういうお話ではなくて、

流入してくるものは、あくまで、「幸せの種」。

ここが、一番のポイントであるかと思うのですが、

瞑想をして、そこから息吹いてくるもの、

愛が息吹いてくるのか、

光が息吹いてくるのか、

エネルギーが息吹いてくるのか、、

そのような、内側から息吹いてくるもの

またそれに連動して動く、外側に偏在する大いなる何かのサインを

注意深く観察して、それをこの世界に、実際に表現・顕現することで、

はじめて「幸せ」は開花する、ということです。

 

「幸せの種」に、「観察」という水をやり

芽吹いてくるものを「表現」することで

幸せの花は咲くことができる  という流れになるでしょうか。

 

文字にすると、「なんだか難しそう〜」と、萎えてしまいそうですね。

 

でもこれは、瞑想の実習のなかで意識してみると、

「息吹いてくるもの」を感じたり、「サイン」に気づいたり、

なかなか面白いものであります。

 

とくに、「観察」という水やりが、かなりの鍵を握っていると思われ、

また「瞑想を継続する鍵」にも直結していると感じていますので、

この「観察」については、また回を改めて、詳細に見ていきたいと思います!

 

あたりまえの、本来心


愛、光、エネルギーなどと言うと、

現実離れしているようで、ナンだかなぁ〜。。

という、そこのアナタ!

安心してください! はいてますよ!

 

何をって、

愛と光と、エネルギーをです。

すでにみんな、これに生かされているみたいなんです。

 

「幸せの種」に、生かされている。

 

いつもある、当たり前のものほど、気がつかなかったりします。

なんて、かく言う自分も、「ナンだかなぁ〜」寄りの人間なのですが。。

 

悟り、覚醒とは、

このような「あたりまえ」に、気がつくこと

「いま」が、どれだけ偉大なものであるかを、知ることであるそうです。

 

いつかの記事にも書きましたが、天河神社の宮司さんの

「瞑想は、万物と、あたりまえのものと共にいること。」

というお言葉が、思い出されます。

 

そして、「あたりまえ」とは、

またの名を、「本来心」とも呼ぶのだと思います。

 

宮司さんは、こうも仰っていました。

『本来、人は、持ちつ持たれつ。

このような、平等で、平らかな心を、本来心といいます。

宗教でも科学でも、過ちは、この本来心から外れた

「支配」からきています。』

 

自分以外のものになろうとしたり、

人生や、人を「支配」したりしようとせずに、

人と人はつながっているという「本来心」から、

あるがままを見つめて、当たり前とともに生きることができたら、

それを、「幸せ」というのかもしれません。

 

そして瞑想とは、当たり前を見つめて、

「あたりまえ」とともに生きる覚悟そのものである、

と言えるのではないでしょうか。



やはり瞑想には、幸せになる「しくみ」があります。

 

楽しんでください!

 

 

ありがとうございました。