「頭寒足熱」の格言にみる、真の中庸と瞑想について①
水をかぶって、プチ悟り。
今朝寝坊してしまった先生が、頭から水をかぶって「反省」していたとき、意識がハートに落ち着いたというエピソードに始まりました、今朝の誘導瞑想動画でのお話。
本配信のほうが誤って削除されてしまったようですが、その削除部分のお話も合わせますと、今日は実に、1時間近くにわたって(!)お話されていたかと思います。
昔、学校で「水の入ったバケツを持って、廊下に立たされた。」という漫画みたいなエピソードを持つ先生の、その廊下に立たされた理由は、「しゃべりすぎ」であったそうで、今回も、しゃべりすぎてしまったことを「反省します。」と、動画を締めくくっておられたことも面白かったのですが(笑)、瞑想者にとっても、すごく為になるお話でありましたので、そんな今朝2月16日付の誘導瞑想番組内でのお話を、コンパクトに、分かりやすくまとめてみたいと思いました。
朝の時間が忙しくて、ゆっくりお話を聴けなかった方、お話が長すぎて途中で迷子になってしまったという方に、ご活用いただけましたら幸いです。
今回は、3つの記事に分けて、お届けいたします!
まずは、お話の要点と、お話の中に出てくる用語の解説から。
お話の要点
さて、どのようなお話が展開されていたかと言いますと、、
「頭寒足熱」という格言をひも解いてみると、本当に満ちた「中庸」とは何か、ということと、瞑想するとなぜ満ちた状態・境地が訪れるのか、ということが見えてきます。
このようなお話でした。
「頭寒」は、頭部を冷やすこと。
「足熱」は、足元を暖めること。
「このようにすると健康に良いですよ〜」という文脈で、格言として登場するのが、「頭寒足熱」です。
では、そもそも「中庸」って、何なのでしょう?
「中庸」と「中道」
「中庸」とは、中国の儒教(孔子に始まった思考・信仰の体系)の言葉で、『論語』という文献の中に出てきます。
儒教の中心概念、最高概念とも言われているこの言葉の意味は、
「過不足なく、偏りのないこと。」
「優れた点や、変わった点を持たないこと。」
ということで、「中道」という言葉を思い出す人も、多いのではないでしょうか。
一方の「中道」という言葉は、仏教用語であります。
「中道」と「中庸」は違う意味であるとする仏教学者もいますが、
「有る・無いという、この2つの見解のどちらにも囚われない、偏らない立場」
これを、「中道」といいます。
余談ですが、「中道」とは、お釈迦様によって発見されたものです。
6年とも7年とも言われる苦行の末に、「苦行では悟ることができない」として、それまでの苦行を捨てて、苦行や快楽という極端に走らない、悟りという目的にかなった適正な修行という「中道」を見出され、ついに目覚めた人(=仏陀)となったそうです。
このような、お釈迦様の言葉が残されています。
(文中の「比丘(びく)」とは、仏教に帰依した者、修行僧のことです。)
比丘たちよ、出家した者はこの2つの極端に近づいてはならない。第1に様々な対象に向かって愛欲快楽を求めること。これは低劣で卑しく世俗的な業であり、尊い道を求める者のすることではない。第2に自らの肉体的消耗を追い求めること。これは苦しく、尊い道を求める真の目的にかなわない。
比丘たちよ、私はそれら両極端を避けた中道をはっきりと悟った。これは人の眼を開き、理解を生じさせ、心の静けさ、優れた智慧、正しい悟り、涅槃のために役立つものである。
(パーリ語経典より)
弦は、締め過ぎても、緩め過ぎても、いい音は出ない、程よく締められてこそいい音が出る、比丘の精進もそうあるべきだ。
(パーリ語経典より)
さて、このような「悟りの鍵」を握っているともいえる「中道」、儒教でも最高の概念とされる「中庸」と、「頭寒足熱」が、どのように絡んでくるのでしょうか。
次回の記事にて、解説します!