FM88.8 瞑想RADIO

瞑想のある毎日。

ただ在ると、起こること。

臨時ニュースです。

きょうも、FM88.8まで周波数を合わせていただきまして、ありがとうございます!

突然ですが、瞑想RADIO臨時ニュースです。

Hiroki先生により、毎朝配信されております「空(くう)で繋がるWEB瞑想会〜毎朝誘導瞑想〜」ですが、Ustreamの人気番組(過去動画)において、トップから2番目にランクされていたとのことで(!)本日(26日付)配信の動画が、現時点で470視聴数を超えております。

瞑想動画サイト「Youどう?瞑想〜めいそう日和〜」の、3月1日からの本スタートを前に、これからさらなる広がりを見せることとなりそうで、ワクワク。。!

ニュース番組など、社会的な番組に混じってのランクインには、やはり深いところで、みんな純粋なところから生きることを願って、瞑想にも期するものがあるんだなと、瞑想における確かな機運・盛り上がりとともに、感じるところでした。

今回より、数回にわたってお送りさせて頂きます「ただ在ること」、またそれにまつわる考察も、最後には、瞑想と、この瞑想動画の価値へと着地することになりますので、まず最初に、このニュースをお伝えさせて頂きました。

いつでもどこでも、毎日が"瞑想会"になってしまう「毎朝誘導瞑想」!

これからも、どうぞ応援、御愛玩のほど、よろしくお願いいたします!!

ただ在るということの価値に、立ち返ってみる。

さて、前回の記事で、瞑想において「瞑想しようとしないこと」というアドバイスを実践してみたら、突然「自分」が消えて、なにか空間的なものになってしまった、ということを思い出し、次のような感覚が降りてきた、というお話をお届けしました。

「瞑想しようとしていない」ときに、ふいに訪れる「ただ在る」という存在状態こそ、高波動で振動していて、このとき、すべては自動的に、「自然」に向かって、バランスされていっているのではないか。

「ただ在る」だけで、そのときに必要な解放は自然と起こり、心身はその人にとってのバランスを、どんどん取り戻していくのではないか。

 

そんなことを思った、次の日の朝のことです。

何気なくFacebookを眺めていたら、こんな記事が目に飛び込んできました。

昨年末に、初めてお逢いさせていただいた、あのOSHOの最初のグループのお一人でありました「シャンタンさん」という方の、ブログ記事です。

以下に、抜粋させていただきます。

(前略)

体がリラックスしているとき、
体は体で、自分とは別物のとき、
体は自分ではなくなります。
そのとき、自分が不在となり、
無に非常に近い状態。

そのとき、自分の中の自我を、
体は、体の緊張として感じます。
それは頭が気づいてもダメなのです。
体が、自分不在のまま、体自身で、
自然と感じていきます。
すると、勝手に緊張=自我が抜けていきます。

なああああああんにも、
しない、、、、、
それだけで、、、
どんどん抜けてく。


何もする必要がない。
自分が不在だとすべて勝手に起こる。
浄化もなにもかも。
何もする必要がない。
あなたは、あなたではなかった。
そこに、目覚めなさい。
目覚めなさい。
あなたがいないことに目覚めなさい。
あなたはいませんでした。
残念でした。
それが、
わたしのできる、
最高の祝福。
あなたはいませんでした。
おめでとう。
おめでとう。
それが目覚め。


「覚醒のひかり」/ シャンタンさんのブログより

 はいおめでとうございます!!

上記の記事にタイミングよく出会ったということは、「ただ在る」とき、何もしようとしなくても、浄化と解放は自動的に起こるという予感は、ある程度の真実を含んでいそうだ、、というところから、「ただ在る」ことについての思索が始まりました。

今回はそのスタートということで、このお話から。

そもそも、瞑想をする・しないに関わりなく、とくに肉体面において、「バランス」をとろうとする作用が常に起こっていることを、ご存知でしょうか。


「ホメオスタシス」という言葉があります。

これは、「生体恒常性」と訳される言葉でありまして、外部からの影響や環境の変化によって「アンバランス」になりそうな要素を、体温や血液中の諸々を調整することで、バランスを取ろうとする働きのことを総称して、このように呼んでいます。

って、これだけではチンプンカンプンだと思います!

例を出してみますね。

(以下のホメオスタシスの例えについては、先日の記事で書きました、高見澤幸子先生のアロマレッスンにて、勉強させて頂いた内容になります。)

たとえば、指にバラのトゲが刺さってしまったとき、血液中の白血球がその治癒へと働き出し、その部位の緊急性を知らせるため、傷口を腫れ上がらせて、痛みの指令を出します。

このように、外部の影響によってできた傷口、つまりバランスを崩したところを、調和・バランスの状態にもっていこうとすることは、まさにホメオスタシスの一例です。

「あくび」も、血中の二酸化炭素の量が増えたとき、肺の中の空気を入れ替えようと起こるホメオスタシスと言えます。

風邪や熱を出すことも、体内に溜まった毒素を排出しようとする"最後の手段"として、ウイルスを「利用する」ことでバランスを取ろうとする、ホメオスタシスであると知ったときは、さすがに驚きました(!)

ウイルスが体内に侵入すると、免疫系がフル活動することになって、その結果、体内に溜まった毒素も排出されるというわけです。

ウイルスの侵入によって身体がやられているのではなくて、身体のほうがウイルスを「利用して」いたというのは、すごいですよね。

なので、薬や解熱剤などで、無理に症状を抑え込もうとするのは、ホメオスタシスという身体の意志とは、逆の行為になってしまうのです。

ちなみに、良質なアロマは、このホメオスタシスという自然の働きをサポートする(目覚めさせる)という効能があります。

さらに、ここは僕の持論なのですが、、

いわゆる「カルマ」も、その人が、その人本来の「自然摂理」から外れている(アンバランスになっている)ことを、お知らせしてくれているものなのではないかと感じています。

つまりここでも、カルマは排除する対象などではなく、その人本来の自然に戻し、還し、統合させてあげるべきもの、ホメオスタシスによるバランスが必要である部分としての、サインに思えてくるのです。

(もっとダイタンに持論をさらけ出しますと。。先ほどの「身体がウイルスを利用してバランスに向かおうとする」例えのように、ホメオスタシスが働いて統合・合一・ワンネスというバランスに向かうように、敢えてカルマというウイルスプログラムを体内に仕込んで生まれてきた、なんていう想像もできます。無論、カルマはウイルスなどではなく、ホメオスタシスを発動させるための導火線でしかないという立場でありますが。)

フルフィルメント瞑想の創始者であるボブ・フィックスさんも、「カルマは、あなたの教師である」と仰っていますが、それも、カルマはその人本来の自然に還し、自然にバランスさせるための、ある意味、ホメオスタシスについての言及なのではないでしょうか。

カルマの奥には、そのような「宇宙の愛」が流れている、という見地からのメッセージであると思うのです。

瞑想とホメオスタシス

ここで瞑想が登場しますが、敢えて「空(くう)」という言葉は封じて、引き続きホメオスタシスにのっとって、お話を進めてみます。

カルマによって浮上してくる事象・心象も、そのカルマを解いて、より自然に開かれるためのホメオスタシスであるとすると、瞑想は、そのホメオスタシスと同調する行為である、という見方もできます。

瞑想をすると、なんとなく自然体やバランスされている感覚に落ち着きますよね。

瞑想によって、ホメオスタシスが促され、自然とのバランスが取れたところから、カルマが溶けてゆく、もしくは自然へと還されてゆくというメカニズムを、ここに見ています。

そして恐らく、病気とは、カルマがとる"最終手段"なのではないでしょうか。

瞑想は、カルマが病気という手段を取るまえに、聡明にカルマを解いて、自然にバランスさせていくことを可能にする手段になるかと思いますが、その一方で、瞑想をすると心身がツルピカに健康になるというのとは、ちょっと話が違うのではないかとも思えてきます。

あくまで瞑想は、ホメオスタシスをよりアクティブにするサポートはするけれども、病気や症状として気づかせることのほうが「宇宙の愛」であると判断されていれば、そのような形でホメオスタシス、バランスさせようとする機能は働き、敢えて症状のほうにはタッチされないということも考えられます。

つまりは、瞑想によるホメオスタシスに、「気づき」や「受容」という要素を持ってきてあげることで、瞑想的ホメオスタシスは、実を結ぶのかもしれません。

(もちろん、瞑想はそのような「気づき」を、より繊細なものにしていく過程でもあります。)

さて、話はそれてしまいましたが、このホメオスタシスを、先ほどのように「宇宙の愛」と呼んでみたいと思うのです。

 

発表します!(ゴホン)

瞑想のなかでも、とくに「瞑想しようとしない瞑想」によって、「ただ在る」という存在状態になるとき、そのホメオスタシスを司っている「宇宙の愛」との同期は、最大値になるのです!(ホンマかいなー!)

って、意味わかりますかね。。

「ただ在る」とき、「自分」がいなくなり、すべての浄化と解放が自動的に起こるのは、この「宇宙の愛」と同期しているから、なのではないでしょうか。
・・ということです。

このときは、先ほどの「気づき」という要素を持ってこようとするまでもなく、非常に繊細な「気づき」も自動的に起こっている(いわば「気づき」そのものになっている)状態なのだと思います。

簡単にまとめますと、、

「ただ在る」瞑想をしていると、ホメオスタシスちゃんがバリバリ働いて、ソッコーであなた、「自然」に還りまっせ!ということになります。


いろいろと小難しいことを書いてしまいましたが、このように見ていくと、「ただ在る」ことで起こることは、確実に何かありそうだと、思えてきませんか?

思えてきましたね。(無理矢理)

もちろん、瞑想によって起こっていることは、瞑想者の方においては既に色々と感じ取っていることと思いますが、「ただ在る」という、瞑想にとって当たり前とされているような姿勢に、どうも全ての秘密が隠されているような気がしてならないのです。

「瞑想しようとしない瞑想」

 あなたも、試してみませんか?

ただリラックスして目を閉じて、何もしないでいると、浮かび上がってくる「在る」。

その「在る」を、ただただ、観察すること。

ーいえ、これではまだ、きっと「瞑想しよう」としています。

禅でいう「心身脱落」「一切放下」さえ、捨ててみる。

「委ねること」も、脇に置いておく。

「感じよう」も、いらない。


そこに、「宇宙の愛」とでも呼ぶべき、なにがしかの「愛」を見つけたら、、


メールしてね♡

 

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