実存は本質に先立つ。(瞑想動画サイト、本日より公開!)
瞑想 de 哲学
きょうも、FM88.8にチューニングいただきまして、ありがとうございます!
昨日は、一日瞑想会に行ってきました。
その帰りの、本屋さんでのことです。
探していた本が、どうしても見つからない。
そこで、いよいよ店員さんに聞いてみようと、レジカウンターに行ったところ、こんなメッセージの書かれたしおりが、カウンターの片隅に積まれているのを発見しました。
『実存は本質に先立つ』
一見して意味は分からなかったものの、このしおりに出会うためにカウンターに来たということだけは、分かりました。
これは、フランスの哲学者サルトルの言葉であるそうですが、、
意味、わかりますか?
僕は、わかりません!!!(え)
意味がわからないものに出会ったときは、瞑想的な観点に立ってみると、「おお!?」と豆電球が灯ることがあります。
そのときも、瞑想的な視点が、この言葉をクリアなものにしてくれました。
サルトルの真意の解説は哲学者に譲るとして、ここは一つ瞑想的に、この哲学に挑んでみたいと思います!
アタマで真実を知ることができない理由
のっけから哲学者に対して喧嘩を売っているようなタイトルですが、、
哲学も、最後には思考の外=瞑想という海に行き着くことになると、何かの本で読んだことがあるので、許してください!(?)
『実存は本質に先立つ』
さて、瞑想のある日常を送っていると、時として、人や物の中に「本質」が見えてくることがあります。
それは、自分についての「本質」であったり、あの人についての「本質」であったり。
「本質」というと、ちょっと分かりにくいでしょうか。
「エッセンス」と言った方が、イメージしやすいかもしれません。
身の回りの環境、自然、、といったものの中に、自然の「エッセンス」を見たり、そんな「エッセンス」に触れたような感覚を、時々経験したりするものです。
そして、その「本質」や「エッセンス」といったものは、アタマで「分かる」といった種類のものではなく、どちらかというと、「感じる」ほうに近いのではないでしょうか。
なんとなく、そんな感じがする、といったように。
「本質」や「エッセンス」など、「真実」という核心に迫っているものほど、「感じる」しかない。
「感じる」しかないのは、そもそも「真実」とは、「分かる=分ける」ことのできないものであるから、というような気がするのです。
アタマは何かを理解しようとするとき、必ず対象を「分断」「解体」して、その結果、「分かる」「解釈する」ということをします。
言い換えるならば、アタマが何かを「分かっている」とき、必ずそこには「分断」や「分離」が生じているので、分断や分離とは対極にある「真実」には、無縁の状態にあると言えます。
なので大抵の場合、「分かった!」というときは、本来は分けられないもの(真実)の、ある一部分だけを切り取って、「分けることができた!」と言っているだけに過ぎない、ということですね。
「私は、何にも分かっていなかった。」
分からないということを知る。
これこそ、真実への扉を開く、本当の理解なのではないでしょうか。
存在感覚で知る。
瞑想は、「分ける」前の状態
つまり、「真実」の側に落ち着かせます。
空(くう)が分からない?
分からないということは、分けていないこと。分けていないだけ真実(空性)に近いので、それでオールOK!
そして、分けることで生じていた、自分や周りへの「判断・評価」といったものも薄まってゆき、それは、平安さへと繋がります。
さらには瞑想的に「分けない」でいると、自然と分かれる前のもの、つまり「本質」や「エッセンス」といったものが、立ち現れてくるんですね。
では、それら「本質」や「エッセンス」を始めとした「真実」を、「分かろう」とするのではなく、「感じる」ことを選択したとき、一体どういった摂理で「感じて」いるのかといいますと、おそらく、存在感覚で感じるということになるかと思います。
この存在感覚で感じる、ということを初めて意識し出したのは、瞑想を続けていた中で、静寂を感じたときに起こりました。
アタマの中が静かというわけではないのに、自分という存在そのものが静かで、落ち着いている、といったような感覚でしょうか。
それまで、静寂とは「アタマが静かになること。雑念や想念がなくなること。」だと思っていたのですが、どうも静寂とは、「存在の感覚・存在の状態」のことを言っているんだなと、このときに気がつきました。
この頃から、真実は存在で知る(体験する)ということを、確信を持って感じています。
そして恐らく、静寂といった「存在の感覚」は、伝播すると思われます。
これは、おもに瞑想会などにおいて、複数の瞑想者とともに座るときに「濃い瞑想」として体験されるものに似ていると思うのですが、例えば、ある聖者の側に寄ったときに、何も考えられない、いわゆる「ノーマインド」の状態になってしまったという話や、瞑想の中で、熟練した者の静寂を伝達・伝授するといった瞑想もあるそうです。
存在の感覚が伝播するということは、僕らは「存在」というもので繋がっていて、本来「一つのものとして存在」していることを意味しているのではないかと思います。
そのような一つのもの(存在・実在・実存)を通してでしか、一つのもの(本質・真実・ワンネス)を知ることはできないというのが、『実存は本質に先立つ』という意味なのではないでしょうか。
「ただ在る」という瞑想が、その実存、真実に生きるための、鍵になっていそうですね。
瞑想動画サイト『YOUどう?瞑想〜めいそう日和〜』本日オープン!!
いよいよ本日、瞑想スペースAOYAMA発、瞑想動画サイト『YOUどう?瞑想〜めいそう日和〜』が公開になりました!
YOUどう?瞑想〜めいそう日和〜
いつでも、どこでも、この動画があれば、毎日瞑想会並みの質の高い瞑想が経験できます。
動画を使って瞑想をするメリットは、熟練した先生と視聴者同士が、動画によって先ほどの「実存」で繋がり、「存在の感覚」を伝播し合いながら瞑想することで、それだけ深く、濃くプロセスを進めていけるような瞑想をすることができる、ということです。
そのような瞑想を、できるだけたくさんの人に経験してもらいたい、瞑想をもっと気軽に、日常に取り入れてみてほしい、また瞑想することで、みんながそれぞれの、本当の幸せを生きられるようになってほしい、といった、純粋な願いが込められています。
また、もう一つこの動画サイトが純粋である点は、このサイトが多くの瞑想者とのコラボレーションで出来上がっているというところで、僕自身も、この点が非常に気に入っていて、素敵だなと思っています。
自らの純粋なものを目覚めさせるものは、やはり純粋なものであると思います。
この純粋の輪が広がっていくことを思うと、本当にワクワクします!
果たして「存在の感覚」は、本当に伝播するのか!?
ぜひ、この瞑想動画サイトで、確かめてみてください。
皆さま、どうぞご愛用、ご愛玩のほど、よろしくお願いいたします!!
ありがとうございました。