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FM88.8 瞑想RADIO

瞑想のある毎日。

瞑想者だからできる、本当の共感と、強力な癒し。(&新シリーズスタートのお知らせ!)

FM88.8 瞑想RADIO、本日も、元気いっぱいに放送いたします!

今回も引き続き、「在る」ということについて、お届けしてまいります。

前回は、「分かること」と「存在(実存)で知ること」の違いについて、綴ってみました。

「分かった!」とは、本来一つであるはずの真実の、ある一部分だけを切り取って、分断に成功することができたものを指して、「分かった!」と言っています。

「分かったもの・分けられたもの」は真実ではないので、世の中のことが「分かる」ほど、真実ではないもの、つまり、虚像や幻想を積み上げてゆくことになります。

出家とは、このような「分かる」ことの繰り返しから退却して、「分からない・分けない」ほうの世界に、真理を求めてダイブすることである、と言えるでしょうか。

さて、これと同じような理由で、自分や人のことを「分かろう」とするのも、やめておいたほうが懸命であると思われます。

人のことを「分かろう」とするのは、その人についての虚像や幻想を作り上げてゆこう、ということと同義になるからです。

その人に内在する真実に目をつむり、「分かる」という包丁で、その人をぶった切ることであるとも言えます。

よく女の子同士の会話に、「分かるー!(>_<)b」というのがあります。

1回や2回なら、ぜんぜんOKですね。むしろ可愛い。(?)

問題は、たとえば身の上話の相談で、この「分かるー!」を連発されたときです。

どのような気持ちになるでしょうか。

だんだん、こんな気持ちになってきませんか?

 

 

_| ̄|◯  わかるんかい・・・

自分だけのストーリーがあって、そんな自分だけのストーリーそのものを聞いてほしい、受けとめてもらいたいのに、「分かる」というハサミによって、そのストーリーや受け容れてほしいという心は、ズタズタに切り刻まれてしまいます。

これは本当の「共感」ではなく、「共感」という言葉を借りた、精神的な暴力であると言っても、大げさではないと思います。

こう考えると、共感というのも、なかなか難しいもんだなぁ。。と思えてきますが、きっと瞑想者であれば、「本当の共感」ができるはずなのです。

「本当の共感」

それは、相手の存在を、ただ感じてあげることです。

この世で最も強力な癒しとは、「存在を感じること」であると言われています。

自分を癒してあげたいときは、自分の存在を、ただ静かに感じてあげる。

相手を癒してあげたいときは、相手の存在を、ただ静かに感じてあげる。

そして、存在を感じることというのは、すなわち、瞑想です。

何かを言う・言わないに関係なく、それだけで実は、これ以上ない癒しや、必要なことが起こっているのです。

深いところから、本当の場所から(癒し)行為しようとするほど、やはり「存在」「ただ在ること」がキモになってきます。

人と話をするときは、相手の存在を感じること。

または、自分の存在全体で、耳を傾けること。

話し方やコミュニケーション術について、巷ではよく言われていますが、この「存在」を介することが、コミュニケーションの一番大切な部分であり、本当は、それだけで十分なのではないでしょうか。

「存在」という場所、大木にこそ、本当の実りがあります。

言の葉という葉っぱは、後から自然とついてくる。

ここを、信頼できるようになりたいものです。

新コーナー「毎朝誘導瞑想でのお話のエッセンス」スタート!

「本当に毎日、よくこんなにお話することがあるなぁ。。」というくらい、毎朝誘導瞑想でのHiroki先生からは、言の葉という葉っぱが、とめどなく溢れ出てきます。

これもやはり、先生が濃く「存在」という場所に居られるからではないかと思うことがあります。

ただおしゃべりなのではなくて、いや、おしゃべりであると思いますが(笑)、在るべき本来の場所にしっかり「存在」しているからこそ、そのとき必要な言葉であったり、メッセージが、自然と溢れてくるのだと思います。

さて、そんな毎日のお話を、Yuichiro流に日々、まとめてみたいと思いました。

ポイントは、Yuichiro流であるということです。

理解を助けるため、時々、お話にはない例え話を勝手に持ち出すこともあります。

心に響いたままをシェアするという感じになりますので、この点、ご了承ください!

「毎朝忙しくて、(聞きたいのは山々だけど)お話を全部聞いている時間がない」という方にとって、また、毎朝のお話をより深く理解するうえで、少しでもお役に立てましたら幸いです。

それでは、いってみましょう!

幸せという果実を得るために。

カルマを解放して、カルマから自由になる、というだけでは、まだ半分なのです。

カルマから自由になると、起こることがあります。

何が起こるかというと、その人に本来内在している「幸せの種」が、芽を出します。

やがて大輪の花が咲き、その実りを得ることを、幸せと言います。

カルマから解放されるだけでは、そこに幸せはありません。

カルマから自由になったところから芽吹いてくるものを育むことで咲く花。

この花から実りを得て、はじめて本当の「幸せ」は成就します。

幸せとは、このように、実りを得ることです。

では、実りとは、いったい何でしょうか?

「与える」「受け取る」という花を咲かせること。

「幸せ」という花の実りを得て、「幸せ」になるために。もう一つ、咲かせなければならない花があります。

それは、「与える」「受け取る」という花。

与えることと、受け取ることは、幸せに、深く関連しています。

自分の良き資質を分かち合い、役に立ち、与えることができたら、幸せを感じるでしょう。

願い事が叶ったり、愛や豊かなものを受け取ることができたら、幸せを感じるでしょう。

幸せになることは、この「与える」「受け取る」という大輪の花を咲かせることであると言えます。

では、「与える」「受け取る」という花は、どのように咲かせたら良いのでしょうか。

カルマから自由になると、その人にとっての幸せの種が芽吹く、という摂理を思い出してください。

「与える」「受け取る」ということから自由にならなければ、その「与える」「受け取る」という種は、芽吹くことはありません。

では、「与える」「受け取る」ことから自由になるには、どうすれば良いのでしょうか。

やはり、カルマから自由になるプロセスのように、心を開いて、気づきという光をもたらすことが大切になってきます。

ここで、日々の「与える」「受け取る」ということについて、少し心を開いて、気づきの光を取り込んでみましょう。


「与える」「受け取る」に、気づきの光をもたらす呪文。

自分にとっての「与える」「受け取る」を省みて、気づきの光を与えることで、「与える」「受け取る」から自由になり、存分に「与える」「受け取る」ができるようになる(=幸せを享受できる)呪文的なメッセージは、こちら!

あなたは、与えることが好きですか?

あなたは、受け取ることが好きですか?

与えることが好きな人は、実はその奥で、「受け取りたい」と願っているのかもしれません。

その願いが満たされないために、与えることで、「受け取りたい」という願いを満たそうとしているだけかもしれないのです。

そして、実はすでに、生きているだけで、受け取っているのかもしれません。

ただそのことに、気がついていないだけかもしれないのです。

受け取ることが好きな人は、実はその奥で、「与えたい」と願っているのかもしれません。

でも、自分の良いところも分からないし、何を与えたら良いかも分からない。そのため、与えるという願いが満たされないので、受け取るというほうの幸せで、それを満たそうとしているだけかもしれないのです。

そして、実はすでに、生きているだけで、与えることができているのかもしれません。

ただそのことに、気がついていないだけかもしれないのです。

与えることが好き。

その心の動きは、どこから来ていると思いますか?

受け取ることが好き。

その心の動きは、どこから来ていると思いますか?


このようにして、「与えること」と「受け取ること」、そのどちらにも、もっと意識的に開いて、気づきの光を与えてあげることで、そこから自由になってゆき、「与える」「受け取る」という種は芽吹き、やがて大輪の花が咲き、存分に「与える」「受け取る」という(=幸せを享受する)ことができます。

カルマから自由になって芽吹いてくる、その人にとっての「幸せの花」。

その花から実りを得る(=幸せになる)ことは、「与える」「受け取る」という花も存分に咲かせて、「与える」「受け取る」という実りを得る、愛でること。

なので日頃から、この幸せの鍵とも言える「与えること」「受け取ること」について、もっと意識的に心を開いて、気づいていましょう、愛でていきましょう。

というお話でした!

 

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僕個人としては、瞑想を始める前、「受け取ること」ばかりに目がいっていたと思いますが、この頃は、「与えること」と「受け取ること」が、気持ちにおいては、どちらもいいバランスになってきたような感じはしています。

確かに、「与えること」と「受け取ること」が、幸せの鍵であるとリアルに感じられたので、ちょっとあらためて、「与えること」と「受け取ること」に、意識的になってみようかなと思いました。

静の瞑想においては、「ただ在ること」。

日常という動の瞑想においては、「気づいていること」が大切で、この「ただ在ること」と「気づいていること」は、互いに関連し合っていて、しかも両輪であると感じます。(この点については、またいつか、記事にしてみたいです!)

 

ありがとうございました。