3/7 毎朝誘導瞑想のお話のエッセンス
きょうもFM88.8 瞑想RADIOまでアクセスいただきまして、ありがとうございます!
本日は、毎朝誘導瞑想が始まって、ちょうど100回目の配信となりました。
今日3月7日は、瞑想の伝道師、大聖ヨガナンダがマハーサマーディを迎えられた日であるそうです。
このタイミングにあって、ヨガナンダのお写真が先生の元にやってきた(!)というお知らせにも驚きましたが、この機会を、瞑想の価値をあらためて認識・体感する機会として、本日は3時間の特番が先生よりアナウンスされていました。
配信が終わってみれば、実に4時間半という「大瞑想会」的(?)なボリュームでしたが、そんな本日のお話のエッセンスを、自分なりの感想も交えながら、お届けさせて頂きたいと思います!
瞑想の習熟度とは
本日は、このようなメッセージでした。
まず、先生のお言葉そのままに、まとめてみます!
瞑想をどれだけマスターしているかという、その習熟度とは、瞑想の上手い下手といった話ではなく、瞑想を重ねることによって見えてくる自然摂理をどれだけ読み取り、その摂理をどれだけリアルに生きているか、ということに尽きる。
「自然摂理を生きる」とは、瞑想によってつながり、浸透してくる「根源なるもの」という「絶対の意志」を生きること。
この「絶対の意志」を生きるとき、そこには本当のリラックスと、霊的なエネルギー、本当の創造がある。
このことをリアルに体感しながら、瞑想の価値をリアルに感じ知っていくことこそが、瞑想に習熟していくということである。
瞑想をすると、自分自身、または周りの環境において、どのようなことが起こるでしょうか。
・リラックスする
・色々なことに気づくことができる
・思考や見通しがクリアになる
・身体が軽くなる
・エネルギーが溢れてくる
人や状況によって様々ですが、瞑想をしていると、これらのような効果、または恩恵を感じることがあります。
この瞑想による変化をじっくりと観察し、気づきをもって日常を生きてみるということが、「瞑想の価値を知る」ための、第一歩であるとしたら、、
本日のメッセージは、これよりもう一歩進んだ内容となります。
すなわち、瞑想の価値を「リアル」に知ろう(=本当の意味で、瞑想に習熟してゆこう)ということです。
瞑想の価値とは、ズバリ、上記のような恩恵をもたらす「根源」から生きる、ということを実践することでしか、リアルに知ることはできません。
瞑想をすると、私たちを生かしている「根源・空」という温泉に浸かることになるがゆえに、これらの恩恵がもたらされるわけですが、この言わば温泉の熱をもって、現実世界に当たろうとする姿勢・意志が大切になってくる、と言い換えることができそうです。
そして、このような根源から生きることは、本当の自分という絶対の意志を生きることであり、本当の自分を生きることでハートは開き、スピリチュアルなエネルギーは流入するということです。
(このスピリチュアルなエネルギーは、現実創造を果たすためのエネルギーとなります。)
瞑想をすると、どのような効果・効能・メリットがあるかというのは、極めて表層的なところに過ぎません。
大切なのは、そのようなメリットをもたらす「根源なるもの」と一つになり、「根源なるもの」から生きようという意志であり、その実践の積み重ねこそが、瞑想を習熟させてゆくのです。
根源から生きることは、「本当」に生きること。
「根源なるものから生きる」・・もっと簡単に表現すれば、前述のように「本当の自分を生きる」ということになるかと思います。
本当の自分を生きる(または生ききった)ことによって、本当の自分の場所に存在しているがゆえの、本当のリラックスがあり、そのような根源から生きるがゆえのスピリチュアルなエネルギーの流入があり、そのエネルギーが自分や周りに広がり浸透していくこと(=自分と周りが自分の領域になり、そこで起こっていることを繊細に感知することができる)によって、自分に今何が起こっているのか、周りに今何が起こっているのかという、本当の気づきがもたらされます。
このような目覚め開かれた、本当の気づきがあるということは、人との巡りのなかに、または偏在の働きのなかに「流れ」を見ることができる、ということです。
そしてこの流れにこそ、ハート(愛)は呼応して、愛ゆえの、本当の創造を巡らせることができます。
瞑想は、「根源なるもの」につながり、「根源なるものから生きる」ことを促します。
また、毎朝誘導瞑想の心願成就スキルにおける「融合」とは、この「根源なるもの」「偏在の意識」との「融合」です。
「根源なるもの」という「本当」こそが、本当のリラックス、本当の気づき、本当の創造、本当の自由、本当の豊かさ、本当の幸せを成就させてゆくのだと思います。
そして、瞑想によってうながされるこれらの「本当」を、実際に本当に生きることで、瞑想という行為は本当に成就する(=瞑想に習熟する)と言えるのではないでしょうか。
ありがとうございました!