FM88.8 瞑想RADIO

瞑想のある毎日。

瞑想を楽しく続けるコツ

きょうもFM88.8 瞑想RADIOにアクセスいただきまして、ありがとうございます!

昨日の毎朝誘導瞑想のお話では、「瞑想の価値をリアルに知ろう!」といった、ちょっとディープな内容でしたが、本日はそんな深いお話から一転して、「瞑想を趣味的に、もっとライトに取り入れてみよう!」というようなメッセージでした。

3/8 毎朝誘導瞑想のお話のエッセンス

「人生をより良いものにするため」

「本当の幸せを実現するため」

「古くからの癖を解消し、自由になるため」

・・目標をもって瞑想すること自体、悪いことではないのですが、このような大きな目標を掲げて瞑想をするとき、その手段としての瞑想は、言わば「義務的」なものになってしまいがちです。

瞑想をしなければ、これらの目標が達成できない。

だから、瞑想をやらなければならない。といったように・・

そこで、例えば「ついついやってしまう悪い癖」の代わりに、「ついついやってしまう瞑想」として、(朝晩2回の瞑想にプラスして)瞑想を趣味的に日常に取り入れてみることで、ついついやってしまう癖のほうも解消しながら、且つ瞑想を楽しんでやってみるのはいかがでしょうか!というのが、今日のお話のエッセンスでした。

瞑想を楽しく続けるコツについて

これは瞑想者にとって、永遠のテーマですよね。

「瞑想を趣味にしてしまう」ということに、ひとつ大きなヒントがあるかと思いましたので、この点について、さらに深く切り込んでみたいと思います!

さて、のっけから自慢かよ、にゃろめ!と思われてしまうかもしれませんが、、僕は今のフルフィルメント瞑想を始めてからの2年と6ヶ月の間、朝晩2回の瞑想を一度も欠かしたことがありません。

でも、瞑想が大好きでたまらないから毎日継続できるのかというと、それは違います。周りからすると、僕は瞑想好きに見えるみたいですが、実際のところ、そんなに好きではありません。(嘘をつくな!という声が聞こえてきそう・・)

その証拠に(?)以前やっていた瞑想では、一定の間瞑想が続いたと思ったら、しばらく瞑想をサボる、といったことはザラでした。

これではイカンと、また瞑想を再開しても、これがなかなか続かない。

そんな当時と今は、いったい何が違うのかと振り返ってみたときに、ひとつ気がついたことがありましたので、それを「瞑想を楽しく続けるコツ」として、Yuichiro流に綴ってみたいと思いました。

まず、以前はどのように瞑想をしていたのか告白しますと、先ほどのような「人生を良くするため」「長年の癖を解消するため」といった、ある意味で悲壮感を漂わせながら、瞑想をしていたかと思います。

今思えば、悲壮感なんて、まったく楽しくないわけです。悲壮感の「継続」なんて、できればしたくないのが本音。そんな悲壮感を感じないようにするために、あえて「義務的」にやっていたところもあるかと思います。「瞑想は心身にとって良いものなんだ」と、自分に言い聞かせながら。ただやっぱり、「義務」も楽しくない。「悲壮感」と「義務」を足して「修行」と美しく表現してみたところで、楽しくなるわけも無く。。 楽しくないものは、継続なんてできませんよね。

だからといって、瞑想を継続できている今、「瞑想は楽しいか」と問われると、YES!と答えることができないところを見ると、今の瞑想の継続のモチベーションは、どうも「楽しい」という感情ではないみたいなのです。

じゃあ何なんだ、ということで改めて感じ直してみたときに、あることに気がつきました。

これは、フルフィルメント瞑想を始めた頃のことにさかのぼります。

観察がもたらすもの

はじめてハートマントラの伝授を受けたとき、はっきり言って何がなんだか、サッパリよく分かりませんでした。それまでの瞑想とは違った何かを期待していたこともあったのか、内心、かなり落胆していました。

それで、マントラ伝授のフォローアップの一貫で「瞑想会に参加しましょう」となったときに、とにかく瞑想会には参加したくなかったのを覚えています。

「フルフィルメント瞑想はすごい」という噂を聞いていたので、きっと瞑想会でも、瞑想中もの凄い体験をしている人たちが集まってきて、そんなところに身を置いたら、ますます自分の劣等感は深まるばかりだろう、という予感からでした。

兎にも角にも、当時の自分は劣等感の塊であり、この部分を解消したいと思っての瞑想でもあったため、余計に「瞑想会」というヤツには警戒していました。

Ah〜、瞑想会なんて、行きたくないなぁ、、憂鬱だ〜。明日地球が爆発しないかな。(小学生か)

なんて思いながら、家で一人で瞑想していたときのことです。

明らかに、それまで感じたことのないような、なにか暖かいものが身体にかすかに広がっているのを感じました。 これは、それまでやっていた別の瞑想とは、まったく違った経験に感じられたのです。

そこで、気がつきました。

伝授のときに「まったく感じなかった」のは、「特別な感覚」をまったく感じなかっただけで、実はとっても繊細な感覚というものは、瞑想中、確実に起こっていた。ということに。

そんな発見を、先生に告げてみました。

「先生、僕は瞑想に、すごくドカーンとしたものを期待していたみたいです!」

すると先生から、このようなことを言われました。

「瞑想中に起こっていることは、そのような繊細な領域のことなのですよ。」

このときの先生の言葉が、劣等感の塊であった僕にはとっても救いになったことと、この言葉がどこか腑に落ちたこともあって、それからというもの、どのような些細な変化であっても、それが瞑想による変化であると思えたものは、すべてメモに取るということを始めました。

そんな変化への気づきが、そのまま瞑想に向かうモチベーションとなって、瞑想会にも足繁く通ううちに、先生の瞑想への純粋な想いに感化されていることにも気づきはじめ、いつしか「瞑想をしないなんて、チョ〜勿体無い!」なんていう、まるでHiroki先生が言いそうな言葉ですが、そんな風に思うようになっていました。

ということで、Yuichiro流の、瞑想を楽しく続けるコツとしては、、

瞑想による変化を観察して、小さな変化、些細な変化というものを、ひとつの「成功」として、愛でつづけるということになるでしょうか。

これは、これから瞑想を通してもっと変化していくかもしれないという、予感や確信も、自然と呼び込みます。

ポイントは、観察です。そして恐らく、「悲壮感」や「義務感」といったものの中には、この「観察」が十分にはありません。

「観察」がひとつのブレイクスルーになり得るのは、仕事においても同様に言えるのではないでしょうか。

「やらなければならないこと」の中に、たとえば3分でも5分でも瞑想を取り入れて、そんな新しい習慣を取り入れたことによる変化を「観察」してあげることで、そのような「観察」はやがて仕事全体にまで及び、それまで「義務」でしかなかった仕事が、途端にクリエイティブなものになる、といったように。

このようにして、瞑想においても、瞑想による変化の「観察」というものを導入して、変化に対して能動的に気づくことで、瞑想をクリエイティブなもの(=ただこなすだけよりは、ちょっとだけ楽しいもの、進歩を感じられる、「やってる感」のあるもの)にしてしまうというのが、瞑想を継続していくためのコツになるかと思います。

「人生楽しんだ者勝ち」なんて言葉がありますが、これはもっと言うと、人生に観察という光を取り込んで、「生きてる感」のある、「クリエイティブな人生にした者勝ち」ということなのだと思います。そういう意味では、まさに「瞑想楽しんだ者勝ち」なわけですね。

その意味で、「観察」とは、ひとつの「革命」になり得るのではないでしょうか。

瞑想を継続するのに、瞑想を好きになる必要なんか無いんです。

同様に、ある仕事を続けるのに、仕事を好きになる必要も無い。

「好きなことが見つからない」「仕事が好きになれない」「あの人を好きになれない」・・無理に何かを好きになる必要など、無いのではないかと思います。

人生も、仕事も、瞑想も、そこに「観察」という人類最高の叡智を持ってきてあげることで、ちょっとだけクリエイティブに運ぶことができれば、ちょっとだけ美味しく料理できれば、それで大成功なのではないでしょうか。

(そして瞑想によってこそ、「観察」は養われ、深まります。)

今日のお話のエッセンスは、「瞑想を趣味的に日常に取り入れてみよう」ということでしたが、ただ軽い瞑想を頻繁にするというのではなく、それらの瞑想による変化の「観察」、つまり、軽い瞑想を取り入れることで、自身や日常にどのような変化が起こるかといったことを、ちょっとワクワクしながら眺めてみるという気持ちでいると、いくらか瞑想を「趣味的に」できるかもしれませんよ!? そして、そんな「観察」から、自分なりの哲学や瞑想をする理由といったものも生まれてきて、少なくとも、僕はそんなことが原動力になって、瞑想を継続することができていますよ!ということをお伝えしたいと思い、綴らせて頂きました。

なにかのヒントとなり得ましたら、幸いに思います。


ありがとうございました!

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