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FM88.8 瞑想RADIO

瞑想のある毎日。

開運には瞑想が一番ということが腑に落ちてきた話。

 

きょうもFM88.8 瞑想RADIOにアクセスいただきまして、ありがとうございます!

なんと今、海外の地ベトナムからも、アクセスいただいているようです!

元気ですかー!!  僕は、

 

元気ですよー!!(ナゾの改行)

そういえば昔、「元気ですかー!」っていうのを「便秘ですかー!」に変換(?)して言うの、流行っていませんでしたか?

流行っていませんでしたか。 僕の小学校だけだったのかな。。

そしてこれ、本当に便秘の人には、結構ハラの立つ流行ですよね。

さてさて、毎朝誘導瞑想(3/9)でお話にありました、「瞑想中の意識の置き場所」

みなさんは、試してみましたか?

僕はこの「意識の置き場所」を、ここ2日間ほど、詳細に試していました!

(更新が止まったときは、このように「瞑想しているんだな」と思ってください。笑)

これがなかなか良かったので、後ほど、改めてシェアしますね!

3/10〜3/11 毎朝誘導瞑想のお話のエッセンスより

昨日(3/10)と、本日(3/11)のメッセージは、どこか繋がっているような気がしました。

この2日間のお話を、僕なりにまとめてみます。

アタマからの行為と、ハートからの行為はまったく違うもので、モノが良きに展開してゆくのは、いつもハートからの行為。ハートは、「今」起こっていることに息づくものなので、「今」に心を開いて準備しておくことで、ハートから行為するチャンスをとらえることができる。(=自他共にとって、幸いな流れに乗ることができる。)そして、チャンスをモノにするのは、ハートから行為しようという勇気。

 

「ハートに従うことが大切」

「心を開きましょう」

・・スピリチュアルな学びをしている方は、耳にタコができるほど聞いている言葉であるかと思いますし、また、これらの大切さを、本当に身を持って実感しているがゆえに、生きる指針のようなものとして、大事にされている方もいるのではないでしょうか。

さて、昨日お風呂に入ろうと扉を開けたときに、「瞑想は、"ハートに従う" "心を開く"っていう、土壌を耕しているみたいなものなんだよね。」ということを、ふいに思いました。

瞑想のために目を閉じると、代わりに、心の目が開くんだろうなと思ったのです。

「何を当たり前な」と思われてしまうかもですが、このことは、とても新鮮な気づきとして感じられました。・・目を閉じるから、心の目が開く。

だから瞑想というのは、単純なところでいうと、心を開く体操みたいなものなんだろうと。
瞑想をすればするほど、心の目は開かれて、心で世界を感知する(真実を見る)能力が、養われてゆくのではないでしょうか。

 

「感じる」現場で、運は動き出す。

感情や感覚は、それがどんな感情や感覚であれ、感じるものというのは、過去や未来ではなく、いつも「今」感じるものであるかと思いますが、心が開いてくるということは、それだけ「感じる」ことに開かれて、「感じる」ことに重心が置かれる、、つまり、「感じる」現場である「今」に、錨(いかり)を降ろしていくことになるんですね。

・・心が開かれてくると、「今」に生きるようになってくる。

それで、自他が幸いになるときや、人生が動き出すときというのは、大抵「今」起こっていること、起こったことに対して、心が(トキめくなどして)反応することから、すべては始まっているのではないかと思います。

「今」にいないとき、たとえば心の目を開けないで、アタマばかりを使って「ああでもない、こうでもない」とやっていると、大抵このチャンスを逃してしまうということですね。(僕も、これでどれだけのチャンスを逃してきたことか・・)

「今に在ること」が大切なのは、これが「幸」というチャンスをつかむことのできる唯一の切符であるから、ということなのですが、「今に在ること」が大切なのは、いわゆる悟り的な意味においても然りであります。「今に在ること」は、幻想からの解放であったり、モノの真実をあるがままに見られる境地であったり、啓発の起こる場所であったりということで、僕自身、「いまここ」を、このような悟り的な見地に付随する文言として話したり、聞いたりすることが好きなのですが、もう少し身近に、つまり「幸というチャンスをつかむことのできる場所」のように、「今に在ること」をとらえたほうが、もっと現実に即していますし、もしかしたら悟りとは、このような「幸せをつかみたい」「開運したい」という、ミーハーとでも咎められそうな動機を、一つひとつ素直に実践していった先にあるものなのではないかと、思えてくるのです。

今に心を開くということは、脈動している今という、瞬間瞬間に同調して生きることであるといいます。

脈動して「生きている」瞬間に目覚めているからこそ、自分の中で起こっていることや、周りの中で起こっていることに「気づく」ことができて、そこから何かをキャッチするがゆえに、自他にとって、何か有意義な「生きている(=現実を動かすパワーのある)」ことが起こるわけです。

それに対して、アタマ(マニュアル主義などの型にはまったもの・繰り返してしまう癖や記憶・ギュッと固く閉じさせているもの)は、大抵、過去や未来などの「生きていない」現場にしかいないので、今起こっている「生きている」チャンスをキャッチできない、もしくは運を運んできてくれた相手に対して(運とは、ほぼ100%人を介して運ばれてくるものであるそうです。)「生き生き」とした反応や感動をもたらすことができず、せっかく運が運ばれてきた現実が息づいていかない、ということになるのだと思います。

なんだか、開運には「心を開いて、ハートに従うこと」が、すべてであるような気がしてきました。

そして瞑想は、「心を開いて、ハートに従うこと」ができるだけの、開運という名の土壌を、育みます。

繰り返しになりますが、「悟り」とは、このように心を開いて、ハートに従って行為していくことの先に、当たり前のような顔をしてあるものだと感じるのです。

昨今のスピリチュアルムーブメントの中で、いまここ=悟りという公式がアタマの中で出来上がってしまっているので、ちょっとここは一つ、もう少し「今」というものをこのように身近に手繰り寄せて、丁寧にひも解き、見つめてみたいなぁと思いました。

長くなってしまいましたので、冒頭の「意識の置き場所」については、また明日、お届けすることと致します。

 

ありがとうございました!

 

よく考えたら、アレでしたね!

毎朝誘導瞑想のお話のエッセンスを、こちらのブログにて毎回お届けさせて頂いておりますが、後でまとめて復習したい!というときのために、お話のエッセンスだけの記事を独立させて、ここ数日アップしてきました。

なのですが、ちょっと考えてみたら、あえてエッセンスだけを独立してアップする必要はなかった、ということに気がつきました。(てへ)

なので、前回や今回のように、エッセンス+Yuichiroの独白、というスタイルに戻そうかと思います! (以下は、お時間ありましたら、良かったらお読みください。)

と言いますのは、、よく考えてみると、特定の記事だけを後で検索しやすくするための「タグ」というものがありまして、これは、一つの記事に複数付けられるので、お話のエッセンス+Yuichiroの独白を書いても、こちらで記事にお話のエッセンスのタグを付けて、「今日のエッセンス」のような小見出しを文中に明記すれば、どちらにしても簡単に、「お話のエッセンスだけを抽出したまとめ読み」は可能になるのでした。

そして毎度、エッセンスをお届けすることになりますので、タグなどつけなくても、毎回の記事を普通にさかのぼって頂ければ、その都度復習ができてしまいますね!

毎朝の、瞑想にまつわる為になるお話と、為になるかは分からないYuichiro的瞑想話を一度に読めてしまう、世界で唯一のブログFM88.8 瞑想RADIOを、今後とも、どうぞよろしくお願いいたします!!

 

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