FM88.8 瞑想RADIO

瞑想のある毎日。

最近、瞑想をしていて想うこと。

自然という、自由。

きょうもFM88.8 瞑想RADIO、元気に放送中です!

引き続き、リトリート・シリーズにお付き合いください。

僕はこの頃、瞑想をするとき、「自然にたゆたう」ようにしています。

「たゆたう」とは、ゆらゆらと揺れ動いている様子のことを言いますが、僕という存在を丸ごと自然と見なして、そんな自然にただ乗って、ゆらゆらしているに任せる、または、そんな自然という温泉に浸かっているといったイメージで、このとき自然と、意識はどこでもない場所に置かれます。

これが、とても気持ち良いんです。

気持ち良いということは、気の持ちが良い、気が長持ちするということで、なんで気の持ちが良くなるかというと、やはりそのような「自然にたゆたう」瞑想が、本来の自然に還っている様だからではないかと思うのです。

そんなどこでもない場所を、英語では"Nowhere"なんて言いますが、このNowhereは、"Now Here(いまここ)"とも言われていて、リトリート中は、このようなNowhereという「どこでもない場所」に意識をたゆたわせることで、Now Here(いまここ)に全てを譲りたい、Now Hereに心と存在状態を開きたい、というようなことを、ひたすらやっていたわけです。

前回のブログでの言葉を引用しますと、「過去・現在・未来」という、縦方向に動く習性のある思考(マインド)から手を引いて、Now Hereという名の地平線に沿って、ひたすら横方向に広がっていこうとする試み、とでも言えるでしょうか。

これが「修行」という形で、縦方向に積んでいってしまいますと、要はエラくなってしまうんですね。エラいは「偉い」と書きますが、"人べん"+"違う"と書くようにも見えます。つまり、人が間違ったことをするとき、人はエラくなってしまう。このときの「間違ったこと」とは、自然から離れてしまうことではないでしょうか。「自分」とは、「自然」から「分けられたもの」と書きます。本来の自然から行き過ぎて、自然から分離してしまったとき、「自分」が出てくるようです。ポコっと縦に出て、エラくなってしまうんですね。「過ぎる」の「過」は、"あやまち"とも読みます。

それで、すべての生きづらさの原因とは、自らを自然から分けるという過ちによって生まれたもの、つまり「自分」という特別意識の仕業ではないかと、ずっとそんな仮説を抱えていたのですが、そのことを、前回のブログに頂いた感想から思い出しまして、ここにご紹介・引用させて頂きたいと思いました。

それは、「瞑想によって凄い人になったのではなく、横方向へ平らかに広がり、ますます「普通の人になった」のだと思います。」という文章についての、嬉しいコメントでした。

 

以前私も、どっかで自分はすごいんじゃないか、何か持ってるんじゃないかっていう想いがあって、それがあるからこそ、現実で自分を受け入れて貰えない状況の時に「なんでわかってくれないんだろう」って思ったり、それによって相手の言うことをリアルにちゃんと聞かなかったりして苦しい時期があったんだけど、相手も自分と同じくらいすごい、むしろ自分よりすごいって受け入れられるようになって、初めて、自分も相手も同じくらい愛すべきもので、同じくらい大事なものって思ったら、自分はすごいわけでもなく、まさに自分の中で「普通の人」になっていったんだよね。それと同時に、すごく抜けて自由になった気がしたのを思い出したよ。

 

「すごく抜けて自由になった気がした」って、 いいですよね。

そう、普通の人になるって、「自由」になることなんですよね。自然体になること=自由になること、とも言えるかと思いました。

このコメントを頂いて、なんだかホッとした気持ちがしたのは、「なんだ、僕と同じだったんだね。」と、どこかで思ったからだと思いました。

 

自分という、不自由。 

いわゆる「生きづらさ」が始まった瞬間を、僕は覚えています。

それは、小学4年生のときの、学校の教室でした。

突然先生から、ドラえもんの「出木杉くん」というあだ名をつけられて、それが勉強もスポーツも万能だったからという理由であったそうですが、自分ではまったくそうは思えないのに、周りから「出木杉くん」と、一目置かれるように呼ばれ始めたことで、いつしかそのような「特別」なイメージが壊れることを怖れて、勉強でも何でも、人の目や評価が気になったり、いろいろと気が抜けなくなってしまったことを覚えています。

そのような守るべき「自分」というものができたことで、それまで味わったことのない「生きづらさ」とでも呼ぶべきものを感じ始めていました。

その頃、日曜の夜にやっていた「たけしの元気が出るテレビ」というのを見ると、明日からの地獄の学校が思いやられて、とっても元気がなくなっていったことを覚えています。

それで、その「生きづらさ」の正体が何なのかが分かったのが、大学生の頃であったでしょうか。

「生きづらさ」があるのは、自分への「特別感」があるからだ、と。

そして、その「特別感」こそ、「自分」というものの正体であると悟った(?)のが、瞑想を始めてからであったと思います。

そういえば、瞑想を始めた大きなきっかけの一つとして、瞑想だけが、この「特別感」を打破してくれそうだと直感したからであったのを思い出しました。

その直感はドンピシャに当たっていたようで、瞑想をするほどに、この「特別感」が、玉ねぎを剥くように落ちていくことで、どんどん普通の人に戻っていって、今では、「自分」という不自然・不自由から、「自然」という自由へと、かなり移行が進んでいっていることを実感しています。

瞑想と、先生、瞑想仲間の、お陰様ですね。

いつも、ありがとうございます。

そして、「出木杉くん」と呼んで「特別感」を刺激してくれた先生や友達がいなかったら瞑想を向かっていなかったことを思うと、そんな小学4年の頃のみんなにも、感謝ですね。

このブログを読んでるか分からないけど

あのときは、ありがとう。

僕は今や、「瞑想やり杉くん」になりました。

 

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