意識の力って、すごいかもしれない。
その配信の帰り道、一緒に担当して頂いたMさんが、「話すことをガチガチに決めてから話そうとすると、緊張する」ということを打ち明けてくれて、なるほどー、確かにそういうものかも、と思いました。
人は、アタマを使おうとすると、固くなってしまうのでしょうか。
みんなでリアルタイムにやる凄さ
その前日も、朝から先生の配信現場で瞑想させて頂きました。
配信中、教室で5人(先生を入れて)とともに瞑想していたのですが、明らかに5人以上いるよねというような、沢山の瞑想者と共に瞑想している感覚があって、それはもう、ほとんど不気味といっても良いくらいリアルなもので、、配信で(意識で・空で)繋がって瞑想しているんだなということが、あらためて実感できたような時間でした。
また「心願成就」では、ご視聴の皆さまのチカラも加わってか、手に持っていたロウソクの炎が、ハートの熱、または神聖な熱を帯びているような、、それはとても、神社の祭事での護摩焚きが放つ熱に似ていて、畏敬の念を覚えるほどであったことが、鮮明に思い出されます。
その日には、「こんな仕事で、生きていきたい」と思い始めていた、まさにその仕事のお話を頂く機会もあって(!)皆んなで同時に祈ったことのパワーによるものかと、感じたりしました。
意識のチカラというと、意識を存分に集中させて、何かを成し遂げることであったり、意識を使って叶えたいことを引き寄せるといったことをイメージするでしょうか。
また、このようなイメージのもと、意識のチカラを使う=念じるといったように、ちょっと肩に力が入りがちになってしまうところも、あるかもしれません。
でもひょっとしたら、「意識のチカラを使おう」とすることより、毎朝誘導瞑想で意識を合わせて瞑想することや、意識を合わせて祈るといった、リアルタイムで多くの人と「意識を合わせて何かをしてみよう」から始めてみることこそ、そんな「意識のチカラ」を発動させるうえで、すごく大きく寄与するものがあるのではないかと思うのです。
肩の力を抜いて心を開くことで、意識のチカラはもっと、その本来の力を発揮するのではないかとも感じます。
毎朝誘導瞑想のなかで
「あれ、一人で瞑想するときとは、ちょっと違う気がする」
「1日の質が、なんだか変わった」
・・そんな感覚にこれからも心を開いていくことで、意識の力に心を開いていきたいなと感じているこの頃です。
ありがとうございました。