FM88.8 瞑想RADIO

瞑想のある毎日。

感じると、見えてくるもの。

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お久しぶりの更新となりました。



瞑想のある日常は、「心を開かせてくれる」過程でもありまして、今は新たに、「感じる」ということに、心が開かれているのを感じています。

この「感じる」事のはじまりは、ある夜の、瞑想会の帰りでした。

「自分をサポートしてくれている、目に見えない存在は、マインドや思考を通して、サポートしてくれることもあるのではないか。」

そんなことをふと思って、よくスピリチュアルな学びにおいて邪険にされがちなマインド・思考といったものも、水や空気と同等に、自分を生かしてくれているもの、生きてゆくうえで欠かせないものなのではないかと、そんな思いがしました。


そして、『生命の現場』で起きていること、すなわち身体の各機能、感覚、呼吸、心の動き、思考、その一つひとつに生かされていて、そんな『生命の現場』に落ち着いていることが、どれだけ大切なことであるか、という考えに至ります。

目醒めているということは、目に見える又は目に見えない「生かしてくれているもの」を感じながら、「生かされている」という真実に、目が開かれていることではないか。

その有り様は、どこまでも静寂で、あらゆる関係性(の中に生かされていること)が見えている故、地に足がつき冷静な、畏敬の念とともに"being"(存在)している姿ではないか。

そんな風に、思えてくるのです。


感じるものすべては、生かしてくれているもの。

それが、どれだけ豊穣なものであるかー

またある夜の瞑想会の帰り、駅のホームでそんなことを想っていたら、自分が空間に溶けていくような感覚と、「そうだ、これだ」と何かを思い出すような感覚が広がりました。(それは、あまりにも当たり前すぎていて、それでいて、常に新しいもの。)

あの感覚が何であったのか、もう少し詳細に判明するまでは言葉にできないと思い、なかなかブログを書く筆が取れないことにもなりましたが、きっとあれは、『生命の現場』に落ち着いたときの感覚だったのではないかと思って、ますます「感じる」ということに、心を開いているこの頃であります。

そんな中行くことになった、天河大辨財天社奥宮 霊峰弥山大祭。

「感じる」というテーマにあるタイミングで、いつも天川に行くことになる不思議。


次回は、天川村でのお話をお届けいたします。

 

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ありがとうございました。