天河神社奥宮大祭、弥山山頂での護摩焚きにて。
きょうもFM88.8 瞑想RADIOまでアクセスいただきまして、ありがとうございます!
前回は、「感じる」をテーマに綴らせて頂きましたが、「感じる」ことが日常のテーマになるようなタイミングで、必ずといってよいほど天川村に行っていることに、先日の天川旅行の最中、気がつきました。
今日は、天河大辨財天社(天河神社)の奥宮が祀られている、弥山というお山での、護摩焚きのことを綴ってみたいと思います。
普通ではない何か・・
初めて参列させていただいた、弥山奥宮大祭。
大祭のクライマックスである、護摩焚きが始まろうという時のことです。
神社の祭事などで催行されるいつもの護摩焚きとは、一味違うといいますか、ちょっと普通ではない何かが、ふつふつと心に湧き上がってきました。
「地球(人類)の行く末は、ここ(弥山山頂)次第である。」
そんな声が、聴こえてくるようです。
ロックのLIVEステージ、そのすべてが変わる瞬間、すべてを変えられる場所に居合わせたときの、鳥肌の立つような、涙が出そうになるような感覚。。
そして、世界と宇宙の存在という存在が、意識という意識が、今この弥山の山頂を見つめているかのような雰囲気まで感じたとき、
ふいに、いつも弥山に登るとき心にとめている、ある絵が浮かんできました。
(監修:大峯本宮天河大辨財天社宮司 柿坂神酒之祐 / Meditation Book 天河 より)
弥山という山は、熊野から吉野に至る大峯山系の、ちょうど真ん中として位置づけられています。
自然信仰や、神仙思想、道教、仏教の修行のために、修験者によって切り開かれた大峯奥駈道(ユネスコ世界遺産)が走っている山脈でもありますが、熊野から弥山までを母親の胎内の世界としての「胎蔵界」、弥山から吉野までを、この世に生まれてからの現実世界としての「金剛界」を表しているとも言われています。
山の形も、ちょうどそのような姿形になっているところが面白いです。
胎蔵界の山々は、なだらかで、優しげな形をしている一方、金剛界の山々は、斜面が急で険しく、どこか厳しい形をしています。
さて、胎蔵界と金剛界のちょうど中間地点にあたると言われる弥山は、オギャー!と誕生した瞬間、または0(ゼロ)ポイントとも言われていまして、山の山頂は不思議なくらい平らかで、ここに天河神社の奥宮があります。
下の写真は、弥山までの登山中、弥山に向けてシャッターを切ったときのものです。
意識の中心
弥山に初めて登って御来光を拝んでいたとき、まるでこの山の形のように、みるみる心が「静寂、平らか」になっていったことを覚えています。
あまりに心が素直に、純粋に、素朴に、静かに、平らかになっていったので、天川から帰ったとき、ネットで「平らか 弥山」と検索したほどでした。
すると、同じように「心が平らかになった」と書かれていた方を見つけて、やはりそのような場所なんだなと思ったことがありました。
さらに天川という場所は、高野・吉野・熊野という大和三大霊場を結んだ三角形の、ちょうど中心にあたり、天川にある弥山山頂は、その三角形の頂点としてピラミッドの頂点を形成していて、世界の中心、宇宙の中心、万物の根源の場所であるとも言われています。
(この弥山の鎮守として麓に祀られたのが、天河神社です。)
そんなことを想っていた次の瞬間、ある予感が走りました。
心が静寂、平らかであるとき、人は意識の中心、0(ゼロ)ポイントに坐すことになるのではないか。
この弥山山頂という場所は、意識の中心に繋がる場所なのではないか。
「地球(人類)の行く末がここ次第」であるとは、つまり、地球と人類の行く末が、人類の意識次第であるということではないか。
これは、意識の中心での護摩焚きなのではないかー
存在という存在が、意識という意識が、この護摩焚きを見つめているような感覚の裏には、確かに、そんな意識の中心としての匂いが立ち込めているようで、それが、ちょっと普通ではない護摩焚きの理由であるようにも感じられて、、
参列者のみんなとともに唱える般若心経や御真言から、どこまでも尊い瞬間に生かされていることも感じ、それは、人生で4回目の弥山登山にして、弥山という場所がどういう場所であるのかということが、畏敬の念とともに垣間見られたような瞬間でもありました。
根源から生きる、中庸を生きる。
「感じる」ことを日常のテーマとするようなタイミングで、必ずといってよいほど天川村に行っていることに気がついた。と、冒頭に記しましたが、それは、「感じる」ことこそが、根源と中庸に生きることに繋がることを知っていて、また同時に、地理的にも陰陽の気の観点からも、あらゆるものの中心にあたる天川が、そのようなメッセージとインスピレーションに溢れている場所であることを、どこか知っているが故のことなのかもしれません。
弘法大師空海が、高野山を開山する前、天河神社のあたりで修行をされていたことはあまり知られていませんが、思えば、空(くう)の瞑想であるフルフィルメント瞑想をはじめる背中を押してくれたのも、ここ天川でした。
天啓の植物発酵液 空Kuuを天河神社にお届けできたことは、天川に始まったフルフィルメント瞑想の、その歩みの節目における一つのご報告としても、また、これからの新しいスタートとしての宣言をも挙げさせて頂いたような機会ともなりました。
これからも、瞑想のある日常と
その歩みによって結ばれてゆく御縁のなかで
瞑想のたびに、天川の地におもむくたびに
根源から生きること、自らの自然を生きることを
誓い続けたいです。
生きとし生けるものの故郷であり
生命の源である水の神様を讃え
その御神気あふれる、天河。
いつも、ありがとうございます。
これからも、よろしくお願い申し上げます。
PS:瞑想教師の皆々様。
いつか機会がありましたら、「天河瞑想リトリート」など、いかがでしょうか。。
たとえば、天河神社の参集殿をお借りしての瞑想や、弥山山頂(山小屋)での瞑想。。with 天啓の植物発酵液 空Kuuと、弥山源流天の川での沐浴、天の川温泉でのリラックスタイム。。
どうぞ、ご検討下さいませ。