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FM88.8 瞑想RADIO

瞑想のある毎日。

引き寄せの法則の奥にある大元に触れた感覚と、"本当の自分"について。


きょうも、FM88.8 瞑想RADIOまで周波数を合わせていただきまして、ありがとうございます!

ここ最近、ブログでも実生活においても、「感じる」というテーマにある中で、25日朝の誘導瞑想配信「空の瞑想時間とは、自己という神聖な存在の中心に鎮座する時間である」というお話、また同じ日にありました酵素の開発者の方とのミーティングでのお話という流れは、タイムリーという言葉では到底言い表せないような、ただただ合掌の想いでありました。

そんな流れの中で感じていたのは、今まさに、本当の意味で「自分自身」になろうとしているときに在るのかもしれない、ということです。

今回は、そんなお話を綴ってみたいと思います。(ちょっと長くなりそうです。。どうぞお時間ございます時にでも、宜しくお付き合い頂けましたら幸いです。)

先日、「自分を生かしてくれているものを感じていたら、自分が空間に溶けていった」こと、「そうだ、これだ」と何かを思い出したことを記事にしましたが、それは本当の「自分自身」に触れた瞬間であり、天川で感じた、「意識の中心」という存在場・エネルギーを感じたこととも、連動していたようでした。

自分自身のエネルギーと、自分ではないエネルギー

さて、瞑想をはじめる前は、「本当の自分を生きたい」「あるがままを生きたい」と願っていた一方で、そんな自分が当時放っていた波動や出てくる言葉というものは、自分自身のものではなかったことが多かったように振り返ります。

たとえば、「自分はなかなかハートが開けない人間で・・」などと自分を評する言葉においても、「〇〇を実現したいんですよ」と夢を語る言葉においても、その多くは、自分自身の言葉ではない割合が、相当あったような気がするのです。

それこそ瞑想会のシェアの時間でも、以前は「どうすればいい?」ばかりでした。

たとえば、「ここが癒されるために、この思い癖を直すために、日常でどのようなことを心掛けたらよいか?」といった具合に、自分でも「あーでもない、こーでもない」と"策"を練っては、「こうするのが良さそう!」というものを実践して、息苦しくなることの繰り返し。。

今思えば、それら「どうすればいい、こうすればいい」というものは、自分自身としてのエネルギーではなく、自分自身のエネルギーで満たされていないが故の不足感から来る、(自分ではない)エネルギーで埋めたい、という渇望であったように思います。

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そんなことを思い出していた日のミーティングでは、覚醒の意味を実体験から真に知る、意識の大変進んでおられる酵素の開発者の方からの、「色即是空、空即是色とは、宇宙即我、我即宇宙であるということ。宇宙の法則は、非常にシンプル」というお話が、とても印象的でした。

それは、「自己の有様がそのまま現象するという法則の中に生きている」という意味で、自分の中にすべてがあるのだから、周りの人(外)のために生きるのではなく、まず自分が豊かになることがすべてであり、そのためには、「どうするべきか(how to do)」ではなく、「どう在るか(how to be)」が鍵になる、ということでした。

引き寄せの法則を例に・・

これは、いわゆる「引き寄せの法則」で言われていることのようでいて、実は引き寄せの法則の、その大元についてのお話であるということは、後になってから気がつきました。

引き寄せの法則とは、すべては波動であり、同じ波動は互いに共鳴し引き寄せ合うという真理のもと、叶っている気持ちや感情(波動・バイブレーション)に在ることで、そのような現象を引き寄せよう、というものであるかと思います。

ここで興味深いのは、実際にポンポンと何でも引き寄せて叶ってしまう人がいる一方で、引き寄せの法則がなかなか上手くいっている実感を持てない人がいる、という事実です。

引き寄せの法則にあまり詳しくないので、これは想像でしかないのですが、引き寄せの法則が上手くいかない方というのは、叶えたいと思っているものが、自分自身のエネルギーではないからではないか、と感じます。

自分自身ではないエネルギーとは、たとえば、不安や恐れが動機となっているもの(安心安泰を求める心の自動的な習性)、記憶や思い癖、世間からの「こうあるべき」という常識からくるもの、ノウハウ(頭)の域を出ないもの等挙げられるかと思いますが、そもそも「引き寄せたい」という想いすら、自分自身のものではなく、自分ではない誰かの願い、考え(もしくは嫉妬心から始まっているもの)であるということも有り得そうです。。

逆に願いが叶うというパターンを単純に見てみますと、たとえば「今夜はカレーが食べたい」と思ったとき、まずこのような願いは大抵叶うものですが、それは「カレー食いてー!」という自分のエネルギーに、ただ素直に乗っているからであると見ることもできます。(カレーを食べるために、精神世界の本を読むといったような、他からのエネルギーの助けを求めるようなことは、普通しないですよね。)

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(これは「生しらす丼」ですが・・)

ちなみに、不安や恐れとは、本来自分自身のものではなく、何かのきっかけでその波動になったとき、偏在している人類の不安・恐れといった波動と同調・共鳴してキャッチするために、不安や恐れとして感じるのだそうです。それで、不安や恐れが大抵そのまま実現しない(取り越し苦労で終わる)のは、単純にそれが自分のエネルギーではないことの証明でもあるかと思います。

したがって、「潜在意識にある不安や恐れに支配されている」というのは、実のところ、そういった自分自身のエネルギーではないものを、自分自身のものであるかのように同調、または錯覚してしまっている状態の(自分自身ではないものに力を与えてしまっている)ことでありそうです。

また、「すべてをコントロールしている潜在意識を浄化して、現実を好転させましょう!」というときの、その好転するメカニズムとは、自分自身のものではない不安や恐れといったものが無くなることで(自分自身のものではないと気がつくだけで終わってしまうこともあるそうです。)、真の自分自身のエネルギーを生きることができるようになるからという、この一点に尽きるのではないかと考えます。

(余談ですが、いわゆるマスターには、潜在意識が無いと言われます。もしかしたら、ただの幻想の塊が「潜在する意識」というものを形成しているだけで、幻想が霧散すれば(すべてが「明らか」になるため)、潜在意識もたちまち霧散するのではないか、という気がしています。)

それに対して、「自己実現」というのは、本来の自分自身であるとき自然に満ち溢れてくる、自分自身のエネルギーの発露として、捉えることができます。

先日、パラマハンサ ヨガナンダの映画『永遠のヨギー ~ヨガをめぐる奇跡の旅~』(原題『AWAKE:The Life of Yogananda』・・大ヒットにつき、東京では渋谷ユーロスペースにて、続映が決定したそうです!5月30日〜6月3日まで。)を観たのですが、ヨガナンダの「自己を実現しなさい。」という言葉が、とても胸に残りました。

ここでの「自己」とは、本来の神聖な自己のことでありますが、それは自分自身のエネルギーを存分に開花させて生きることであり、映画のキャッチコピーにある「美しく、生きる。」ということであるかと思います。

そして瞑想とは、本当の自分がいる存在場に落ち着かせて、そこにいつだって坐している神聖な自己という自分自身のエネルギーによって、自身を満たすことではないでしょうか。

引き寄せの法則の大元にあるもの。

自分ではないエネルギーを浄化し、自分ではないエネルギーで埋めようとする心の痛みを癒し、受容しながら、徹底的に自身の中心に在るとき、本当の自分が存在している場である「すべてが在る」という豊かさと自由を生きることになるので、それがそのまま、豊かさや自由となって実現する、否、実現するしかなくなる、ということであろうと思われます。

酵素の開発者の方曰く、お金のことであれ何であれ、「真我に至れば、すべてが解決する」と仰っていましたが、その理由がまさにコレであり、自己受容を奨励する引き寄せの法則の大元にある、自然摂理についての言及なのではないでしょうか。

したがって、瞑想やヒーリング、天啓の植物発酵液 空(Kuu)を飲んで、「自分ではないもの」を癒し流し出してしまい、純粋に自分自身のエネルギーを生きるようになることで、潜在意識と顕在意識は一つに合一し、本当の意味で存在する=すべてが在るという無限の豊かさと自由の存在場に生きることとなり、すべてが叶うー

実現するかしないかの違いは、それが自分自身からの願いであるか、自分ではないか。真我であるか、真我でないか、ということになるかと思います。

Just be yourself  といったところでしょうか。

本当の自分って、何じゃらホイ

「本当の自分」「本来の自分自身」といった言葉を連発しながらお届けしていますが、そもそもの話、これが分かれば苦労しないですよね。きっと、真理を求めてさまようことも無いわけです。・・いや、もしかすると、在るべき場所からさまよい出すから、苦労するのではないか、、。最後に、このようなお話で締めくくりたいと思います。

「本当の自分」で在りたい!在ろう!とするとき、僕なんかは以前の癖からか、本当の自分を「感じよう」とする傾向があるのですが、この「感じよう」というのも、源からさまよい出ようとする、行為(doing)なのではないかと感じるのです。

感じようとしなくても、本当はいつだって、感じているはずー

そんな「いつだって、すべてを見感じている場所にいる自分」こそ本当の自分で、それは神聖な場所であるがゆえ、神聖な自己であり、その神聖な自己は、先生のお言葉を拝借するならば、「神聖な蓮の花の中心」にいて、いつだって静寂の中ですべてを見感じ、慈しんでいる・・。

感じようとする行為も、とても尊いものでありますが、すでに感じている場所に佇む(being)ことは、それ以上に深く、尊いことであるように感じるのです。

「すでに感じている場所」・・??  難しいでしょうか。

それは、瞑想中に在る場所に、他ならないと思います。

感じようとする前に、何かが息づいている場所・・「存在感覚」という、嘘の通らない感覚、とも言えるかと思います。

この前、自分が空間の中に溶けたときに感じた、「当たり前すぎていて、いつも新しい」ものとは、すでにいつも在る(感じている)がゆえに当たり前で、その感じているものが瞬間瞬間常に変化しているという、本当の自分自身のエネルギーに触れたサインであったように感じるのです。

そこは、恐らく自我(エゴ)にとっては悪夢のように居づらい場所になるかと思うので、「感じよう、気づこう、行動しよう」というスローガン、行為(doing)に走ることで、その場所に佇むこと(being)から、巧妙に出ようとするかもしれません。(beingからさまよい出ることは、真理を求めてさまようことの始まりであると見ています。)

とにかくこれまで、beingという存在の中心から出て、何かをするように駆り立てられてきた経緯にあることが大半であるかと思いますので、beingから出ようとする衝動たるや、半端ないものがあるかもしれませんし、beingから出たという感覚すら、気がつかないかもしれません。

beingに佇むとは、行動しないという意味ではなく、むしろ本来の行動が自然と生まれる土壌を大切にする立場になります。

したがって、何度でも瞑想を通して、瞑想のある日常の中で、「すでに感じている、すでに気づいている」その場所(ハート)があることを知り、布を染料に染み込ませてゆくように、空(くう)を存在全体に渡って、染み込ませていきたいと思うのです。

・・思えば、今「リジェネレーション」というマントラを実習していますが、この神聖幾何学であるヤントラは、第3チャクラを表すシンボルのヤントラに、とても良く似ていることに気がつきました。

この第3チャクラは、別名エゴセンターとも呼ぶ「自分エネルギー」の象徴でもあるそうなので、まさに今、自分自身という神聖な自己のハートを実現する学びにあるからこその、ここ一連の流れであるかとも感じています。

そして近日、「自分自身ではないエネルギーを外し、痛みなども一瞬で癒してしまう」という技術を、ご縁あって習得させて頂きますが、この流れも決して偶然ではないように思います。

瞑想、酵素、ヒーリング、仕事、すべてを分け隔てせず、一つごととして良い影響を生み合いながら、自分自身を統合、開花、表現すべく、邁進していきたい所存です!

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ありがとうございました!