心地よい瞑想と、ツラい瞑想。
きょうもFM88.8瞑想 RADIOにアクセスいただきまして、ありがとうございます!
今朝の毎朝誘導瞑想は、心地よい瞑想をするコツについてのお話でした。
空の瞑想をすると、シャクティ(生命活動、人生創造、または感情の元となる霊的なエネルギー。サンスクリット語で「力」「能力」)が尾骶骨(びていこつ)から入ってきて、エネルギーの経路であるナディから身体中をめぐって、視床下部や松果体のある脳の中枢から、ソーマという意識を変容させるホルモンが分泌される。
瞑想中に起こっているこのような摂理に意識を向けることが、瞑想中の体験を心地よいものにするコツであるそうです。
たしかに、前に尾骶骨を意識しながら瞑想をしていたとき、背骨に熱感が走ったように感じたことを覚えています。
尾骶コツからはじまるコツ、とでも言いましょうか。また改めて、この瞑想中に起こっている摂理を感じながら、瞑想してみようかなと思いました。
僕はこれまで、瞑想中に「ツラい」経験をした覚えがほとんど無いのですが、こういう話をすると、大抵驚かれることのほうが多い気がします。
「ツラい瞑想がほとんど無いなんて、信じられない!」といった具合に。
そこで、自分が初めて瞑想を自己流で始めたときのことを振り返ってみたとき、瞑想を始めた動機が、「なにか超常的な体験ができるらしい」とか「無になれるみたい」といったことへの、期待感であったような気がするのです。
つまり、最初から「瞑想=ストレスやカルマの解放」という図式を持ち合わせていなかった(ツラい瞑想という概念自体が無い)為に、ストレスやカルマの解放に同調するといったことが起こらず、従って、仮にツラい瞑想であったとしても、ツラい瞑想として認識されないことになっていたのかと、そんなことを思いました。
人生や世界とは、その人が信じているもので出来上がっていると言われますが、瞑想中の体験においても、同じようなことが言える、ということでしょうか。
そして配信では、「ツラい瞑想」になってしまう要素、またはストレスやカルマといったツラいものと同調してしまうような諸々を溶かし出すものとして、ヨガやアーユルヴェーダをお勧めされていました。
僕にとっての瞑想とは、「正しく(ありのまま)ものを見る」=「目覚める」、またエネルギー的な観点における瞑想とは、「エネルギーが身体の内外を繊細に巡っている」=「目覚めている」なので、ヨガやアーユルヴェーダも、「ツラい瞑想」の回避策としてでなく、やはり「エネルギーの巡りを良くするもの」その結果として「正しく(ありのまま)ものを見る」ことに通じるもの、という捉え方をしたくなりますし、実際そのようなものでもあると感じるのです。
「雑念やストレス、カルマというものは、すべて幻想や錯覚に由来するものである。」と看破して、正しく(ありのまま)ものを見られるその日まで、瞑想は辞められない。
それが一つ、僕にとっての瞑想だということに、改めて気がついたような、今朝の配信でした。
きょうのミュージック♪
上の写真をアップした瞬間、サカナクションの音楽が流れてきました。
サカナクション "アイデンティティ"
youtu.be Victor Entertainment
ありがとうございました!