FM88.8 瞑想RADIO

瞑想のある毎日。

瞑想で、『それ』を生きることになる。

きょうもFM88.8 瞑想RADIOにアクセスいただきまして、ありがとうございます!

今朝と、今夜。

それぞれ、まったく違ったことを考えていました。

今朝は、(何故かはまったく分かりませんが)

「この世に、"自分が本当にやりたいもの"というのは、存在しないんだ。」

という、諦めと確信のようなものを帯びたものでした。

ところが今夜は、

「これまでずっと願ってきたことを、今、本当にできる時にいるんだ。」

という、どこか武者震いするような感覚で。

 

・・「やりたいこと」で溢れ返っていたときには決してできなかったことが、「やりたいこと」が無くなったような感覚が訪れた途端、その「やりたいこと」を実際にやり始めているという自分を発見したことは、

「ありのまま」を生きたいと願っていたときには、決して叶わなかった「ありのまま」が、瞑想を通して、「ありのまま」というものへの希望がまったく消え去ったとき、気がついたらその「ありのまま」を実際に生き始めていたことと、似ているようでした。


空(くう)とは、何も無いカラッポなのではなくて、本当は、すべてのものが満ち切っているが故に、まるで何も無いように感じるもの。といったように、真実というものは往々にして、「逆説的」であります。


でも、この逆説的なものが、生というものを全うするうえで、とっても大切なもののように思えてくるのです。


「空気」という日本語はすごいもので、まるで何もないように見えるけれど、その「空気」がなければ、あらゆる生命は生きることができないという、根底的にすべてを支えるようなものを指して、万物の根源としての「空(くう)」と、万物が内包するエネルギーとしての「氣」を組み合わせて、「空気」と呼んでいたりします。

このように、何も無いようで、すべてが有るという、生命にとっては無くてはならない逆説的なところへと、瞑想はいざない、「それ」との合一に至らせるようです。


目を閉じたとき。

たしかに、初めは、何にも無いように思います。

でもそのうち、明らかに「何も無い」だけでは片付けられない、何かが有るような感覚が、立ち現れてきます。

それは、モヤモヤだったり、圧迫感だったり・・とにかく、何かが有る。

少なくとも、「何も無い」とは言い切れないところへと、連れて行かれる。

このように、何にも無いようで、確かに何かがあるように感じるところを「空(くう)」であるとして瞑想を重ねてきた結果、そんな空の仕業としか思えないような変化がたくさんあったりしてきたので、「やっぱりあなた、空だったんですね」というのを繰り返してきながら、瞑想というものに感じる可能性を、育んできた(育ませて頂いてきた)と感じています。



カラッポのようで、本当は、満ちている。

 

何にもないようで、本当は、ある。

 

あの人はもういないけど、本当は、いる。

・・そんな感覚を大切にすることは、

自分を、人生を、すべてのものを

大切にすることなのではないかと思いました。

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(瞑想フェスin青山 ランチ時間の一コマ)


ありがとうございました!