瞑想で、"良く鳴るところ"に落ち着く。
きょうもFM88.8 瞑想RADIOにアクセスいただきまして、ありがとうございます!
瞑想が満足に習慣化できていなかったときと、瞑想を毎日欠かさないようになったとき。
その両者を比べてみると、面白い違いに気がつくものです。
その一つとして例えば、
瞑想していなかったときは、ちょっと極端に言えば、「できないこと(妄想)」ばかり考えていたのに対して、瞑想しているときは、どちらかというと「できること」のほうが思い浮かんだり、実際にやっていたりする、というものです。
もちろん、妄想が顔を出すことはあるのですが、それでも昔よりは妄想の頻度が減っているような気がします。
この、『瞑想妄想減少効果』を突き詰めていくと、瞑想を続けていくことで、ついには「できること(叶うこと)」しか自然とやらなくなるし、言わなくなるし、考えなくなる、ということが起きてくると想像できます。
(=宇宙の流れ、ダルマとともに歩むということ。)
「行動することで叶う」「言葉にすることで叶う」「思考は現実化する」という、いわゆる成功法則で言われていることを学んで、上手くいく人と上手くいかない人がいる理由も、極端に言えば、叶うことしか自然とやらない、言わない、考えないという存在状態の人だからその法則通り自然と機能する、というのと、叶わない妄想しか自然とやらない、言わない、考えないという存在状態の人だからその法則がまったく機能しないという違いによるものである、というのは、ちょっと夢のない物言いでしょうか。
ただ、「叶うこと」しか自然とやらなくなる、というのは、「簡単なこと」しかやらなくなるというのとは、ちょっと違うという気がしています。
以前、音楽学校に通っていたとき。
たくさん学んだものの中で、『人に届く演奏と、届かない演奏』というのがありました。
人に届かない演奏というのは、決まって、次の2つを満たすときです。
一つは、できないことをやろうとするとき。
例えば、バンドでの演奏中、突然弾けもしないようなフレーズが思い浮かんで、「カッコいいから」という理由だけで無理して弾いてみる、というようなものです。
それで自分は弾けているつもりでも、不思議なことに、相手にはそれが物理的に「聴こえていなかった」り、聴こえないということは、つまり感動が起こらないということになります。
もう一つは、自分が感動していないとき。
例えば、技術的にとってもハイレベルなフレーズが弾けるようになっても、そのフレーズ自体に自分が感動していなかったら、上記とまったく同じように、相手にはそれが文字通り「聴こえないもの」になったり、やはり聴こえないということは、当然そこには感動がありません。
ステージで、自分ができ得る精一杯、感動できることを表現できたとき。
「すごかった。」「感動した。」という声をもらえたのは、決まってそんなときでした。
そして、自分が感動できることというのは、なにも「すごいこと」をしているときではなく、自分が心を込めて、「できること」をしているときだったのです。
感動することは、できること。
感動するものは、叶うもの。
人生においても、そんなことが言えるのではないかと思うのです。
「好きなこと」「感動すること」がわからなくても、「自分にできること」を一つ一つやっていった先に、「感動」があるのだと思います。
「できること」の中に、「叶う」があるのだと思います。
瞑想をすると、自分という楽器が"よく鳴る"(=振動・感動)ようになります。
大切なのは、自分という楽器を、心震えるまま、振動するままに、そのまま(「できること」を全霊)鳴らしてあげることなのかもしれません。
その振動は、必ずそれを聴く人の何かを震わせます。
振動させます。
世界も同じように震えて、
振動して、叶うのでしょう。
ありがとうございました!