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FM88.8 瞑想RADIO

瞑想のある毎日。

ウルトラスーパーな気づき。〜本編〜

きょうもFM88.8 瞑想RADIOにアクセスいただきまして、ありがとうございます!

今回は、"ウルトラスーパーな気づき"について、お届けしたいと思います。

なりきること

NHK Eテレ 100分de名著『正法眼蔵』第2回 「迷いと悟りは一体である」を見ました。

ただわが身をも心をもはなちわすれて
仏のいへになげいれて
仏のかたよりおこなはれて、
これにしたがひもてゆくとき、
ちからをもいれず、こゝろをもつひやさずして、
生死をはなれ、仏となる。

 

「ただわが身をも心をもはなちわすれて」とは、「身心脱落」という、一切の自我意識を捨て去るということを意味しますが、では具体的にどうすれば良いのかといえば、それが次の「仏のいへになげいれて」で語られています。

「仏のいへ(家)」、つまり「本来仏である、悟りの世界に身と心を投じる」。

え、「悟りの世界に身と心を投じる」って、どゆこと?

それは、『なりきる』ということだそうです。

 

本来人間は悟った存在(仏の子)なのだから、仏に『なりきる』ことで、「仏のかたよりおこなはれて」 つまり、悟りのほうからの働きかけが起こって(=宇宙が味方してくれて)、「これにしたがひもてゆくとき」(=この事実に従って歩むとき)、「ちからをもいれず、こゝろをもつひやさずして」(=特別な努力なしに)、「生死をはなれ、仏となる」(=悟ることができる)。

苦しければ、その苦しみになりきる。

悲しければ、その悲しみになりきる。

痛ければ、その痛みになりきる。

よく禅では、掃除、食事、歩行といった全ての所作において、意識的(マインドフル)であるようにと教えますが、それは同時に、行為そのものに「なりきる」ことであると言えます。


また、「感じきる」ことで、その感情や感情に付随する痛みなどが消え去ると言われますが、抵抗することなく、それそのものに「なりきる」ことで、解放と自由が訪れるというのが宇宙の摂理であると、道元は説いています。

瞑想においても、起こってくることに抵抗しないで、起こってこないことにも抵抗しないで、ただそこにある感覚を受け入れつづける(=目を瞑(つむ)った世界になりきる)ことが、瞑想状態が訪れ、宇宙による働きかけが起こる秘訣であると言えるかもしれません。

『すべての苦しみは「抵抗」することから生まれる』というブッダの言葉も残っていますし、カルマの「カ」とは「滞り」という抵抗の産物であり、ダルマの「ダ」は、「流れ」を意味するそうです。

それがプラスのものであろうと、マイナスのものであろうと、それそのものと流れる(なりきる)ことで、悟りという大海へと(ちからをもいれず、こゝろをもつひやさずして)流れ着く。

一瞬一瞬、ここにもそこにも、流れはあり、その流れは一つの例外もなくすべて、悟り・目覚めという大海へと繋がっている。

「ゆえに、目の前のものを大切にすることだけが、悟りへと通ずる。」という道元のメッセージが、聞こえてくるようです。

より良い瞑想のためにも、瞑想と共にあるより良い生活のためにも、道元の『正法眼蔵』は、このような一貫したエッセンスをもたらしてくれるという意味において、全瞑想者必読の書なのではないでしょうか。



さて、ここから先は、昨日の"ウルトラスーパームーン"にちなんで、昨日あったウルトラスーパーな気づきについて、綴らせていただきます。

先述の道元『正法眼蔵』も関係してきますが、ちょっと長いです。

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68年ぶりの天体ショーという流れに乗って、ひとつの大事な解放が起こったのかもしれず、とても個人的な体験をさらしてしまう形ですが、それが、読んで下さる方にとって何か意味のあることとなりましたら幸いです。どうぞ、ご容赦ください。

 

出木杉くんと、引きこもり。

小学生のとき、担任の先生から『出木杉くん』というあだ名を付けられたことがあります。

「勉強もスポーツも何でもできる」という理由からであったと思いますが、当の自分は、勉強ができるとかスポーツが得意だとかは、全くもって思っていなかったため、そのあだ名に面食らうとともに、あまり良い気持ちがしませんでした。

それで、ある授業のときに先生から指されて、国語だったか算数だったか、問題に答えられなかったことがありました。

そのとき、「出木杉くんなのに」「出木杉くんでも答えられなかった」というヒソヒソ声が聞こえて、それが心のどこかに、グサっと刺さったんですね。

 

それからというもの、先生から指されることが極度に怖くなって、授業中何度も心臓が早鐘を打ったり、指されて答えられないと顔がカーッと熱くなったり、冷や汗が止まらなくなったりしたことを覚えています。

たぶん、言葉が突然出てこなくなる吃音(きつおん)も、この頃から始まっていたように思います。今でも、吃音は疲れているときなどに時々出たりするのですが・・


「自分は出木杉くんじゃない」

 


と、自分が一番よく分かっているはずなのに、「出木杉くんではない」本当の自分にもなりきれず、かといって「出木杉くん」にもなりきれず、ただ周りからの「出木杉くん」というイメージが崩れる瞬間にひたすら恐怖している、といった具合でした。

やがて、「出木杉くん」や「真面目」といった評価は、「作られた嘘の自分」「窮屈な自分」で、ファミコンをやったり、漫画を読んだり描いたりする「出木杉くんっぽくない行い」をしている自分のほうが、「本当の自分」であると思うようになりました。

今思うと、「出木杉くん」も、自由に遊んでいた自分も、どちらも「本当の自分」だったんですね。

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大学を出て、引きこもっていたときのこと。

 

当時は、「引きこもり」という言葉を、異常に嫌っていました。

 

誰にも気づかれないで時間だけが過ぎ去って行くような、独特の苦しみというものはありましたが、何より、この「引きこもり」という言葉と、当時の自分の気持ちがあまりにもかけ離れていることこそが、苦しかったように記憶しています。

つまり、「本当の自分」を取り戻したいという意志で選択していることが、「引きこもり」という1単語で片付けられてしまい、まともに話しを聞いてもらえないということです。

 

「自分は引きこもりじゃない」


これは、「自分は出木杉くんじゃない」とも、似ているようでした。

どちらにおいても、「本当の自分」「本当の気持ち」を誤解されている、曲解されていると感じるところからくる苦しみがあって、それによって、「本当の自分」というものをますます想起するようになっていったという点において、共通するものがあります。

周りの心配の気持ちがそのまま罪悪感となって襲ってくる毎日、いつこの状況が終わるのかまったく見えないという不安、外ばかりか家でも「本当の自分」の居場所がない(と思い込んでいた)ことによるツラさというのは確かにありましたが、どれもこれも、嘘っぽいような、そもそも「引きこもり」という言葉が嘘っぽいような感覚がずっとあって、そのとき瞑想だけが唯一、「そのとおり!」と言ってくれるような気がして、「本当の自分」を生きたいという気持ちとも相まって、瞑想に惹かれてゆくこととなりました。

ただ、やはりここでも、「引きこもり」にもなりきれず、「引きこもり」ではない「本当の自分」というものにもなりきれない、ということが起こっていたのだと思います。

 

ここで、ウルトラスーパーな気づきなのですが・・

 人が感じる苦しみというのは、「抵抗すること」で、その抵抗したいものにも、抵抗したくないものにも、どちらにも「なりきれない」ことから、起こってくるのではないでしょうか。

 

自分の例でいえば、「出木杉くん」に抵抗して、「出木杉くん」と「本当の自分」というもののギャップが生まれて苦しんで、「出木杉くん」にもなりきれず、「出木杉くん」ではない「本当の自分」にもなりきれないことで苦しむ。


「引きこもり」という言葉に抵抗して、「引きこもり」と「本当の自分」というもののギャップが生まれて苦しんで、「引きこもり」にもなりきれず、「引きこもり」ではない「本当の自分」にもなりきれないことで苦しむ。

 

禅や瞑想に、「なりきる」チカラを見て、「なりきる」ことが、人を自由にするという予感があって、「なりきる」ことが、あらゆる二項対立によるギャップを一つにして統合するという可能性を感じて、何より、「なりきる」ことこそが自分の人生における最大のポイントであったから、瞑想を始めたのかもしれない、という気づきです。

 

「すべては幻想である」、という言葉があります。

これによって、いくらか気持ちが軽くなる面もあるかもしれませんが、たとえこれが真実を表す言葉であるとしても、幻想であると知りながら、それでも「なりきる」ことの先に、「すべては幻想である」という言葉も追いつかないような、本当の解放と目覚めがあるのではないかと感じるのです。

抵抗するから、なりきらないから、残った念・未消化なものとしてのカルマができるだけで、瞑想の中で、または瞑想のある生活において、抵抗しないことで、なりきることで、「本当はカルマなんて無い」ということを知ることこそが、瞑想なのかもしれません。

このように瞑想は、起こってくることに抵抗しないで、起こってこないことにも抵抗しないという、「なりきる」練習であるとも感じます。

全霊「やりきる」ことで、『大いなる意識の大海としての世界が広がる』という今朝の配信でのお話とも、少し通じるところがあるでしょうか。

なりきること、感じきること、やりきることで自由になってゆくのが、人生という旅の醍醐味であり、瞑想は、その最高のお供になってくれるのだと思います。

 

恥ずかしいもの、苦しみの根源としてどこかに隠してしまった「出木杉くん」を、迎えに行ってあげようと思います。

 

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ありがとうございました!