FM88.8 瞑想RADIO

瞑想のある毎日。

瞑想は、"縦の幻想"から、"横の悟り"へと誘うものか

タイトル難しめですが、チャンネルはそのままでお願いします。

きょうもFM88.8 瞑想RADIOまでチャンネルをひねって頂きまして、ありがとうございます!

引き続き、リトリート・シリーズです。

リトリート・シリーズとは、先日までの8泊9日の瞑想リトリートで起こった気づきや、感じた変化についてレポートしていくという、とくに何のひねりや変化球もない企画になります。

変化球といえば、きょう甲子園春のセンバツ高校野球は、休養日だったんですね。

毎年春と夏は、いつも高校野球を楽しみにしているのですが、今年のセンバツはリトリートと重なったことで、ずっと観戦できていませんでした。

やっと暇ができたので、今日こそは!と思っていたのですが、休養日だったので、いくらチャンネルをひねっても、やっていなかったわけです。

休養日にも、次の対戦相手校のビデオを分析しながら、戦術を練ったりしているのでしょうか。

休養日に、瞑想にふけっている球児とかいたら、なんかカッコいいですね。

「明日は、心眼で打ってやる!」みたいな。

チーム一丸となって瞑想するなんて、絶対良いと思うのですが!

 

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18年間、山にこもっていたヒカルさんの言葉

リトリート中、やっぱり瞑想をたくさんするってすごいなぁ、と感じた瞬間は、夜通し瞑想で寝ずに瞑想をし続けたあとの、毎朝誘導瞑想の配信のときに訪れました。

先生の誘導で瞑想が始まった途端、まるでインクが一滴落ちて、それが水中にジワジワと広がっていくように、自分の創作やコントロール下には無い何かが、まぶたの裏に現れると同時に、瞑想の感覚が濃くなってゆくのを、確かに感じたのです。

それは、配信を通して、日本の各地で瞑想が始まったサインであり、そんな瞑想者たちの存在感そのものである、という確信を伴っていました。

あまりにリアルな感覚だったので、これは瞑想を夜通しで沢山やり続けたからこそ、捉えることができた感覚なんだろうなと思って、これを、「瞑想をやったらやっただけのリアリティがある」「積み重ねるほど、積み重ねた分だけその世界が広がる」のように自分の中で法則化して、以降の瞑想のモチベーションの一つにしていたのですが、では瞑想を重ねたことで、深い感覚を感じ取ることのできた自分は凄いのか、瞑想をそんなに沢山できることが凄いことなのかというと、それは違うという、内なる声も聞こえていました。

先月、天川の友達に連れて行ってもらった和歌山の新宮で、ヒカルさんという方にお会いしました。

なんでも、中学2年生からトータル18年間ほど山にいて、前世など何でも見通せてしまう人らしいというお話を聞いてから、ぜひお会いしてみたいなぁと思っていて、でも色々動き回っている方だから、今日本のどこにいるか定かではないと聞いていた次の日に、自分が泊めて頂いていたお寺まで、そのヒカルさんが来て下さいました。

目を合わせるだけで相手の様々な情報が飛び込んできてしまうので、あまり人と目を合わせようとしないというヒカルさんの、時折こちらに向けられる目は、眼光が鋭く、長年にわたって自然と対峙してきただけの迫力をたたえていました。

魂や覚醒の話、無についての話など、興味深いお話を沢山聞いたので、いつかシェアさせて頂きたいのですが、その中で、「行(ぎょう)をしてはいけない。」というお話がありました。

つまり、考えたり、重ねたり、積んだりして、上へ上へと昇りつめることで至ろうとしても、決して悟りは訪れないそうで、このような「過去」「現在」「未来」という"縦方向"に積み上げてゆく生き方は、その積み上げてゆく荷物の重みでいっぱいになり、必要なものを受け容れるだけのスペースが無くなってしまうそうです。

これに対して、いわゆる悟りとは、"横方向"に広がっていくことであると言います。横に広がってゆくだけなので、上も下もなく、すべては平らかで、同じ「いのち」に生かされていて、その事実を知るがゆえに謙虚、横に広がりがあるので、受け容れるだけのスペースに溢れているとのこと。

このお話を聞いたときに、瞑想とは、「過去・現在・未来」という時間軸に乗った「積み上げ達成思考」という"縦方向"に動こうとする幻想の動力から離れて、「いまここ」「事実」「平安」といった、"横方向"に広がろうとする、悟りの動力そのものではないか、と感じました。

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リトリートの毎朝誘導瞑想のとき、参加者の存在をリアルに感じ取ることができたのも、たくさんの瞑想によって「感知する能力やレベルが上がった」のではなく、ただ単純に、たくさんの瞑想によって横方向へ広がっていたことで、その分スペースができていたので、そのスペースに、例の「参加者の存在感」がなだれこんで来ただけなのではないでしょうか。

瞑想によって凄い人になったのではなく、横方向へ平らかに広がり、ますます「普通の人になった」のだと思います。

これまで、「宇宙に繋がる」というと、上へ上へ高く昇るイメージがあって、「根源と繋がる」というと、下へ下へ深く潜るというイメージがありましたが、実はそのような上下という縦方向は勘違いで、どちらも横に広がっていくことで、本当の意味で繋がるものなのではないかと、そのように感じました。

隣の人とわかり合いたい、手を繋ぎたいと思ったら、手は上や下に向かってではなく、ただ横に差し出すだけですよね。すべてが同じ目線で繋がり合うことを、「統合」と呼ぶのかもしれません。

横方向に広がっていけば、過去も現在も未来も、すべてが「いまここ」にあるので、過去の塗り替えや未来の選択といったものが「いま」可能になる場に生きることになる、とも言えるのではないでしょうか。

ゆえに、過去を癒したい、未来を叶えたいと願うなら、やはり「いまここ」という横方向に誘う瞑想は、基本のキということになるかと思います。

 

ありがとうございました。

 

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PS:毎朝誘導瞑想でのお話について、そのエッセンスをブログで紹介してゆくというコーナーですが、今後は毎回のお話を記事にするのではなく、「これは改めて、理解しやすい形でみなさんにお届けしたい!」と感じたものをピックアップすることで、紹介させて頂くことと致しましたので、何卒ご理解のうえ、今後ともご活用いただけましたら幸いです。  よろしくお願いいたします。