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FM88.8 瞑想RADIO

瞑想のある毎日。

探求の終わりと瞑想①

いつもFM88.8まで周波数を合わせて頂きまして、ありがとうございます!

この頃、『スピリチュアルTV』を観ています。

前々から観てみたいなと思っていて、初めてちゃんと観てみたのですが、覚醒体験や一瞥(いちべつ)体験をした方々のお話がたくさん聴けて、これがなかなか面白いので、ハマってしまいました。

そのスピリチュアルTVでは、いわゆる「真実」が語られているわけですが、ちょっと前までは、真実や格言のようなものに触れると、「これぞ人生の解答」とばかりに、そんな真実や格言をそのまま自分の日常に持ち込んで、事あるごとに、真実や格言を自分に言い聞かせたりしていたのを思い出しました。

そうすることで、「真実」を覆っている諸々を解消して、世の中を「正しく観る」ことができるようになると思っていたからそうしていたと思うのですが、実のところ、そんな見聞きした「真実」によって、「真実を覆っている何か」がクリアになるというよりも、「真実に縛られている」という感覚のほうがずっとリアルにあったことを、告白しなければなりません。

真実が、いつも重たかった。

それは、真実であると言われるものを、いつもアタマで持ち歩いていたからであることは、どこかで気がついていました。でも、辞められなかったんですね。そんな真実が、自分や周りを認識するモノサシのようなものにもなっていて、このモノサシを磨き上げることが、自分というものの価値を高めることだと思って、大切にしていたようです。モノサシというものはいつもモノばかり言って、今よりずっと、アタマの中はわーッとしていて、騒々しかったと思います。

それで、瞑想を深く実習していく中で、真実とは、それが真実であるほど(重くするものではなく)軽く、(騒々しくするものではなく)静寂へといざなってくれるものであると感じられてきたようで、いわゆる「真実」を持ち歩いていた頃よりも、今はずっと身軽で、アタマは静寂のほうが優勢であることに気がつきました。

以前であれば、スピリチュアルTVのようなものを見ると、真実というモノサシ化していたものが刺激されて、アタマがわーッとなっていたと思います。

それがまったく無くて、ふつうに面白い番組として楽しめるのです。

これはもしかしたら、日々の瞑想によって、覚醒体験や一瞥体験とはいかないまでも、意識が瞑想中に「真実」という風呂に浸かり、真実を体験していることが起こっていたからこその、認識の変化ではないか、と思いました。

その「真実という風呂」とは、スピリチュアルTVに登場する覚者の言葉を借りるならば、「私はいない」という真実です。

瞑想とは、それが正しい瞑想であるならば、認識できているいないに関係なく、「私はいない」ということを体験している、言わばプチ覚醒・プチ一瞥体験であるというのが、今の自分の、瞑想についてのホットな認識です。

「正しい瞑想」とは、呼吸法や気づきやマントラ云々というより、そこに「私」が持ち込まれていなければ、すべて正しい瞑想であると言えます。

以前に記事にしましたが、何か目的を持って「瞑想しようとする私」「瞑想する私」「探求」というものを捨てて、瞑想そのものに任せきってしまう。

このとき、「私を消そう」という意図もありません。

「私を消そう」という努力は、「私がある」という前提のうえに成り立つもので、「私」を強化します。

瞑想そのものに任せるとは、自然に委ねるということです。

自然であるとき、「私」は消えます。

たとえば、プロペラ機を思い出してください。

プロペラは、回転して飛行機を飛ばすという、プロペラにとっての「自然」をまっとうするとき、プロペラはその回転の速さによって「消え」、それによって飛行機は飛ぶことができます。

このときプロペラは、自分を「消そう」などと思ったり、「私はいない」という真実を言い聞かせたり、ましてや一瞥体験などしたりしていません。

プロペラは、ただプロペラとして、それが最も自然に機能することを為した。つまりプロペラは、プロペラという自然を生きたことで、プロペラは消え、飛行機が飛び、プロペラはその存在意義とも呼べる最も高いパフォーマンスを発揮しました。

つまり、瞑想においても、人生においても、最も高いパフォーマンスが発揮されるのは自分が消えたときであり、それは、その人にとっての「自然」を生きているときであると言えます。

瞑想をするほど、それが正しく機能していれば、不自然な「私・自分」というものは薄らいでゆき(身軽・静寂になってゆき)、自然なものだけが残ってくるかと思います。

これによって、その人本来の自然であるダルマを生きられるようになるのですが、ポイントは、その人にとっての、又その時にとっての「自然」であるということで、いわゆる「自然こそ最上である」といった、格言についての話ではない、ということです。

次回に続きます。

 

ありがとうございました!

 

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