天川ではっきりと感じた、瞑想に向かう理由。
きょうもFM88.8 瞑想RADIOまでアクセスいただきまして、ありがとうございます!
先日、厳島神社〜天河神社(橿原神宮)までの旅を綴ってきました。
その最後、天河神社での朝拝のときのこと。
なぜ瞑想をするのか(してきたのか)ということや、これまで天川で受け取ってきたメッセージ、自分の人生を通じて感じ続けていたもの、、それらすべてが、一つに繋がるような瞬間がありました。
いつ、このことを書き始めようか。
そう思っていた毎日でしたが、それが今日のような気がして、今キーボードを叩いてます。
この頃、「自分とは何者か」を知ることだけが、すべての問題を溶解させるという感覚。
これが、日増しに強くなってきています。
では、どうすれば「自分とは何者か」を、知ることができるか。
天河神社での朝拝のとき、禰宜さんから
「日本古来からある、自然そのものに神をみて、自然と共存共栄しようとする神道。自然という神と一体になる場、そのお役目としての、神社。」
というようなお話を伺ったときに、
「自分とは何者であるか」
それは、「自然」と対峙することによってのみ、知ることができる。
と、腑に落ちたような感覚がありました。
(思えば、これまでの人生において「自然」というキーワードはずっとありましたし、天川では、毎度のように「感じること」というメッセージを頂いていたり、、)
自然と対峙する。自然と向き合う。自然を感じる。
僕にとっての瞑想とは、元々このようなものです。
身体に生じる感覚、呼吸という自然を見ること。
今感じている素直な心の動きという自然を見ること。
存在している感覚としての自然を見ること。
このような、生の現場における「自然」と対峙する(見尽くす)ことで、
「自分とは何者であるか」を、直接的に知るプロセス。
たとえ、このプロセスに「瞑想」という名前をつけなくても、自然に神をみて、自然と向き合う心は、仏教や儒教などが中国から入ってくる以前からの、日本古来の信仰(神道(古神道))として、昔から脈々と今に至るまで、どこかずっと日本人の心に根付いているものなのではないかと、感じるのです。
そして、これからの世界で日本が担う役割こそ、神道(と、この信仰から自然発生的に生じる解としての、禅・瞑想)にあるのではないかとさえ、感じられます。
昔、イギリスの歴史学者であるアーノルド・J・トインビーという方が、伊勢神宮(内宮)を参詣したとき、
「この神聖なる庭に立つと、わたしはここが、すべての宗教の原点であることを感じる」
と、参拝記念帳に記したそうです。
また、ローマ・カソリックが日本の禅と神道を、霊性開発の手段として、半ば公認しているという事実も知られています。
神道には、「宇宙の創造は音から始まった」として、言霊(音霊)=祝詞を重要視しますが、宇宙の創造の元種としてのマントラを使い空(くう)に至るTM瞑想、フルフィルメント瞑想とも、非常に共通するものを感じるところであります。
・・・色々と小難しいことを書いてしまいましたが、これから、神道(古神道)を研究してみたいという気持ちが、芽生えてきています。
それによって、瞑想のこと、言霊のこと、根源(宇宙大霊・空)のこと、日本の世界における役割というものが、すべて一つ事として見えてくる予感、また、日本人の心には、自然を畏れ、自然と向き合い共生しようとする(=瞑想に向かう心)衝動が流れていること、それは、世界人類すべての奥深くで共通する「自分とは何者か」を知りたいという、普遍的な願いを目覚めさせる力に等しいということにも触れることとなりそうで、ちょっとしたワクワクを感じているところです。
今日の記事、ちょっと難しかったでしょうか。。
なにか少しでも、感じるものがありましたら、嬉しいです!
今後もっと、「自然」と「瞑想」の関係を中心とした、自分なりの瞑想哲学のようなものを(仏教以前の古神道のお力もお借りしながら)分かりやすく紐解いて、記事にしてみたいなと思っております。
ありがとうございました!