深い瞑想に入ることになる意識とは。
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昨夜、瞑想していたときのこと。
「自分とは何者であるか」を観察する意識で瞑想していましたら、ものすごく深く入ってゆく感覚がありました。
瞑想とは、「自分とは何者であるか」を、直接的に本当の意味で知るために行うものであるということを、どこかで知っているような感覚はずっと在りながらも、なんとなくですが、やはりどこかで「自分とは何者であるか」を「真剣には見ようとしない」=寝ている部分が、あったような気もしています。
そして、そろそろ目を覚ますときが来た、ということでしょうか。
「自分とは何者であるか」を見ようとするとき、自然と、呼吸や、身体の感覚(エネルギー)、感情や心の状態、存在しているという感覚を見つめることになると感じます。
その中で、自然と「私は呼吸でもないし、身体でもない。身体の感覚でもなければ、エネルギーでもない。心でも感情でもない。」ということを、頭ではなく存在レベルで知っていき、終いには「自分とは何者でもなかった」=「存在そのものであった」ということを知る。
世の中には、たくさんの瞑想法があります。
呼吸を観察すること。
心の中で数を数えること。
気づいたものすべてを言語化(ラベリング)すること。
チャクラを開くこと。
宇宙創造の元種(マントラ)によって、根源へと至ること。
おそらくですが、どれが瞑想法として最も優れているかという意識の元に瞑想に向かうのであれば、これらはどれも同じような結果、つまり「優れている」と信じた、それ以上でもそれ以下でもない結果を得ることになり、
「自分とは何者であるか」を知る、という意識の元で行う瞑想では、その意識相応の瞑想の深さと、真の果実へといざなわれるのではないかと感じます。
つまるところ、瞑想の深さや、それによって得る効果といったものは、すべて「どのような意識で瞑想をするのか」「どのような意識で日常生活を送っているのか」といったことと、ものの見事にダイレクトに繋がっているのではないでしょうか。
その意識に、高い低い、または優劣といったものはないと思いますが、この意識こそが、存在の叡智と宇宙の摂理、現実創造の神秘をあぶり出すものであることを想うとき、それらを直接的に知ることになるであろう瞑想に向かう意識にも、それなりに繊細でありたいと、このように感じました。
ありがとうございました!