道元禅師から時空を超えて届いた、瞑想へのヒント。
きょうもFM88.8 瞑想RADIOにアクセスいただきまして、ありがとうございます!
前回は、道元の言葉をご紹介いたしました。
現実世界を「われ」という立場を離れて眺めるとき、すなわち身心脱落したのちには、迷いもなく悟りもなく、諸仏なく衆生なく、生もなく滅もない。
自分のほうから宇宙の真理を
悟ろうとするのは迷いであり、
宇宙の真理のほうからの働きかけでもって
自分を悟らせてもらえるのが悟りである。
昨夜、瞑想をしていたとき。
これらの言葉が渦を巻いて、ひとつの気づきがありました。
空(くう)をはじめ、瞑想的な状態といったものを、普段の自分の状態よりも質や波動の高い状態であるとして(←実際そうなのだと思いますが、)どこか、「劣っていて不完全な今の自分から大いなる空へ」、といったように、「劣→優」へと向かおうとする意識があるな、という気づきです。
この「劣→優」とは、道元のいう「自分のほうから宇宙の真理を悟ろうとする」行為と、同じ種類のものなのではないかと・・
普段、生活をしているとき。
人は大抵の場合、「真ん中」ではなく、「どちらか一方の極端に」振れがち、ではないでしょうか。
重い状態、軽い状態
喜び、悲しみ
プラス、マイナス
劣等感、優越感
不安、楽観
迷い、悟り ・・・
道元の言う身心脱落とは、このようなどちらか一方に偏りがちな習性のある身心を脱落(一切合切相手にしない)させて、つまり、空(くう)や瞑想的な状態というものを一切特別視することなく(「劣→優」というベクトルに囚われることなく)、そういったものをすべて捨て去ったところにある、どちらの極端にも振れていない「本来の自分」という「真ん中」のところに居よう!ということを言っていて、これ即ち、瞑想なのではないか。。と思ったのです。
「真ん中」のところに居る、と書きましたが、「真ん中」と言ってしまう時点で、自然と両極端がある"いつもの世界"を想定してしまうので、かなり3次元的な瞑想に終始してしまいそうですが、この「真ん中」とは、簡単に言うと「両極端に振れていない様」ということだと思います。
つまり、目を閉じて、そこにすでに在るもの、今立ち現れてくるものと、ただ共にいること。
・・「身心脱落しなさい。」というのは、「ただ、そこにいなさい。」ということに等しいのではないか、と感じました。
「ただ、そこにいる」者が、私というものの本性であり、仏性であり・・
その当たり前な静寂を忘れて、あっちに行ったり、こっちに行ったりしているのが、この世という3次元世界の、いわゆる一般的な有り様であると思いますが、この世界規模の習性から一歩身を引いてみようではないかという試みが、瞑想であると。
『ただ、そこに在る』とき。
眠りに向かおうとして眠りに落ちるのではなく、眠りのほうから訪れてくるような、瞑想に入ろうと思って瞑想に入るのではなく、瞑想のほうから訪れてくるような、悟ろうとするのは迷いで、悟りのほうから働きかけてくるという道元の言葉のような、そんな何かが起こってくるところであり、すべての創造の源こそが、
『ただ、そこに在る』というものの中に、
静寂の中に、渦巻いているのではないでしょうか。
こう考えると、よく禅やヴィパッサナー瞑想で奨励される「一つ一つの動作への気づき」、いわゆる"動の瞑想"ですが、これは、目醒める「ために」やるという意識では、あっちに行ったりこっちに行ったりという世俗の意識とまったく大差ないわけで、これでは神道でいうところの「罪重ね(積み重ね)」になってしまいそうです。
「一つ一つの動作への気づき」とは、ここでもやはり、「ただ在る」ことに結実するものであるのが、本来ではないかと思います。
「ただ在る」とは、神道でいうところの「祓い」「中今」に当たるでしょうか。
(すごい神社さんに参拝させて頂くと、「ただ在る」というような状態に、自然と持っていかれるような感覚を覚えることがあります。)
「ただ在る」とは、スピリチュアル的に言うなら、「癒し」「解放」「目醒め」ということになるかと思います。
と、散々書いてきましたが、きっと「劣→優」や、悟りや光というものに向かうという(道元の言うところの)「迷い」をトコトンやった先に、やっと本当の意味で、「ただ在る」という感覚が開けるのではないか・・とそんな思いもしますが、これも半分、あっちに行ったりこっちに行ったりする、極端な習性から来ている妄言なのでしょうか。
そんな習性のまま、トコトン迷ってしまうのだと思います。
それでも、観察してみても面白いかもしれません。
瞑想中、
『ただ在る』
『ただ、そこにいる』 かな?と。
ありがとうございました!