FM88.8 瞑想RADIO

瞑想のある毎日。

お燈祭りの誓い。

埼玉県の男を代表して


友達のお誘いにより、はじめて訪れた和歌山県、新宮市。

その新宮で、1400年の歴史をもつ伝統的なお祭りである

「お燈祭り」に、埼玉県代表として、参加してまいりました!

 

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(写真:毎日新聞より)


白装束に松明(たいまつ)の「上がり子」が、

神倉神社の538段の石段を上がります。

 

上の写真は、その石段を上がったところの

御神体のある場所に集まった、「上がり子」たちです。


ここから一斉に、538段の石段を駆け下り、

1位の称号が競われます。

 

この日の参加者は、身を清めてお祭りに臨むため、

白い食べ物しか口にしてはいけません。

 

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昆布でダシをとった「(身の白い)カマス飯」が無茶苦茶に美味しくて、

友達と「おいしいねー!」の連発が止まりませんでした。

(「白い食べ物」と限定されても、意外と困らないばかりか、

とっても美味しく頂けるということを発見。)

 

お祭り前の禊(みそぎ)も、上がり子たちが禊ぐ浜辺の場所を聞いて、

友達の協力のもと、単独で執り行いました。

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お燈祭りのこと

お燈祭りには、男だけが「上がり子」として、神倉神社に登ります。

火祭りとも、男祭りとも、喧嘩祭りとも呼ばれているそうです。

 

つい最近、このお祭りが

国の重要無形文化財として指定する答申があったばかりであるという、

グレートなタイミングでの、初参加に預かりました。

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このような白装束に、松明(たいまつ)を持って、

阿須賀神社〜速玉大社〜妙心寺と、練り歩いてゆきます。

 

そして、神倉神社の石段を上がり、中腹あたりで御神火をいただき、

松明に灯してから、頂上の御神体のもとへと向かいます。

 

(同行させていただいたティムさん、ありがとう!)

 

その松明には、あらかじめ願い事を筆で入れるのですが、

白装束の着付けを手伝っていただいた、お祭りのベテラン風のおじさんが、

お燈祭りの「本当のところ」を、教えて下さいました。

 

「神倉神社を登れない人のために、その人々の願いを受けて、

代理として登ること(代参)こそ、この祭りの純粋な形なんや。

修験道は、死と隣り合わせ。

この苦行も、人々の苦しみを変わりに受ける、代受苦(だいじゅく)。

自分の願いは、本当はどうでもええねん。

でも、これには必ず火つけて、持ち帰らなあかんよ。」

 

そう言って、

会ったことのない人の願い事が書かれた

小さな松明を、差し出してくれました。

 

「苦行」と聞いて、どのようなイメージが湧くでしょうか?

僕の場合は、「悟りや目醒めの境地を得るために、

限界まで心身を削る」といったイメージがあります。

 

ひたすら坐禅を重ねる、只管打坐のようなイメージをするでしょうか。

1週間寝ず食わずで、ひたすら座り続ける、臘八大摂心(ろうはつおおぜっしん)

または、千日回峰行(せんにちかいほうぎょう)など。

 

しかし苦行とは、元々他の人が受けるはずであった苦しみを、

代わりに自分が引き持つ、という意味があるというのです。

 

「自分」が悟りたい。

「自分」の願い事を叶えたい。

「自分」が勝ちたい。

 

これらの「自分」を落とすことにこそ、本当の意味があり、

「自分が自分が」という喧嘩祭りや、競い合いでは、

元々なかったということでした。

 

ひとつ、目の開かれる想いを感じるとともに、

「待っていてくれる人のために、無事、完遂しなければ。」

という、静かな闘志を、帯び初めていました。

 

そんなお祭りのクライマックスが、

冒頭の写真です。


この世の景色とは思えない、異次元の空間。

 

門の最前列では、男衆と松明が、今にも火の玉になりそうな勢いで

ところ狭しと、ひしめき合っています。

凄まじい煙が立ち込めていました。

 

そして、いよいよ開門!という直前の、

「ウォー!」という、男とも神ともつかない雄叫びは、

どこか、本能を呼び覚ますようでした。

 

開門すると、一斉に飛び出して

538段の石段を駆け下りていきます。

 

このお祭りに女性は参加できないため、

女性たちが、下では大勢見守っています。

 

大勢の男性が、女性たちのいる場所に向かって石段を駆け下りていく様は、

まるで無数の精子が、卵子めがけて、本能のままに突進していくかのような。。

そんなイメージが、離れませんでした。

 

この世に生を受けた人はみんな、

普通に考えたら勝ち目がないような、

一歩足を踏み外したら命を落とすような、

熾烈(しれつ)な闘いに、捨て身の覚悟で挑み、

1位の称号を手にした者たちなんですね。

 

だから命は、大切にしなければならない。

 

そして、代わりに受けた代参の松明の燈を夜空に浮かべながら、

想うのです。

 

「大切な、愛する人のために。 大切な、愛する人々のために。

溢れでる愛のまま、自分の大切な命を、燃やすように生きたい。」

 

石段を下り、暖かいみんなと、温かい御飯を頬張りながら、

このお祭りに参加させて頂けたことの有難味を、噛みしめていました。

 

 

ありがとうございました。

 

つづく