鞍馬山の信仰と、黄色いボール。
そういえば、くらま温泉、行けなかったー!
次こそは!
ということで、前回の鞍馬寺のつづきです。
鞍馬寺へ向かう電車の中、
鞍馬寺のホームページに書かれた、ある文章に惹きこまれました。
「共に生かされている命」を共感し、
様々な命が支え合い響きあい、生かし合っていることに気づき、
私たちの「いのち」が本来、光り輝く宝珠であることに
目覚めて欲しいと願っています。
(鞍馬寺のホームページより)
9年前にも、鞍馬寺に行ったことがありましたが、
おそらく、そのときには反応しなかったであろう文章。
つながりあっていることに気がつくことは、
本来の心であり、それは、本来皆それぞれが
輝いていることに目覚めること。
というようなメッセージに感じたのですが、
この意味が、なんだかとっても、わかるような気がしたのです。
スピリチュアルなブログっぽく
そのとき、このような絵が浮かんでいました。
たしか、雲黒斎さんの著書でも、このような絵と解説があったかと思いますが。。
黄色いボール(輝・全体性)から、ABCDEFという突起物が出ています。
黄色いボールが、先ほどの文章でいうところの「光り輝く宝珠(ほうじゅ)」
(鞍馬の信仰でいう「尊天(そんてん)」)
または、ワンネス、空、神、仏性として、よく語られているところです。
ここから出ている、突起物ABCDEFが、いわゆる「個人・いのち」になります。
Aさん・Bさん・Cさんは、
黄色いボールとの境界である「フタ」が取れているので、
黄色いボールの輝きが流入して(=黄色いボールと一つとなって)
同じ光で満たされていて、つながりあっている。
黄色いボールと分離されていたのではなくて、一つである。
という、「皆それぞれが輝いていることに目覚めた」
意識状態、存在状態にあります。
一方の、Dさん・Eさん・Fさんは、
黄色いボールとの境界にフタがあるので、
黄色いボールの輝きは流入しておらず、
分離した「個人」としての意識のほうが強くあるため、
「つながりあっている」「一つである」「皆が輝いている」
などとは、ゆめゆめ感じられないような、
意識状態、存在状態にある、と説明できます。
そして鞍馬信仰は、
ABCDEFを、人だけではなく、木々や海などの自然、星々
森羅万象のすべてが、黄色いボールの「顕われ」であり、
それぞれがつながりあっていて、生かし合っている命である
としています。
次回は、この絵を、
瞑想という観点から見てみたいと思います!
ありがとうございました。