お天道様が見ている。〜瞑想による恩恵とは〜
きょうもFM88.8 瞑想RADIOまでアクセスいただきまして、ありがとうございます!
今朝の配信で、
「人の目に愛でられるより、神の目に愛でられること。」というお話がありました。
昔から、日本には
「お天道様が見ている」という言葉があります。
たとえ他の人間が誰も見ていなくても、太陽はいつも見ているのだから、どんなときでも悪事を働かないように、といった戒めの意味で使われていたものと思いますが、
この「お天道様が見ている」という心は、無宗教と言われる日本人ひとりひとりの心の奥に、昔も今も、ずっとあるものだと思っています。
大きな災害に見舞われたときも、略奪などが起きない日本の姿に世界が驚嘆していたという出来事は、記憶に新しいですね。
「お天道様が見ている」
今では、まったく使わなくなってしまった言葉ですが、この心を育んできたものは、または逆に、この心を育むものとは、一体何であるのでしょうか。
ひとつは、日本古来からの自然崇拝のような、自然の営みそのものに神を見る心であったり、禅の文化としての、無や空(くう)の境地という、「自分」という言葉の届かない場所を認め、それと調和して生きようとする心であったり・・
そんな、いろんな心が醸成して育まれてきた「お天道様」の精神であるかと思いますが、この底の底に流れているものとして、
「恩恵は、すでに得ている」という、「神の目」があるのではないかと感じます。
太陽が出ること、雨が降ることで初めて、自然による恩恵を得ているのではなくて、肉体の生命維持機能や体温、地球の酸素濃度までが常に一定に保たれていることをはじめ、一瞬一瞬、自然からの恩恵を得続けていること。
瞑想することによって、色んなことが上手くいく(もちろん、そういった面もあるかと思いますが)のではなくて、瞑想をしている、まさにそのときに、瞑想することによる最大の果実を、実は一瞬一瞬得ていること。
すでに今、恩恵と祝福を得ている。
気づいている、気づいていないに関わらず、
受け取り上手と言われようと、受け取り下手と言われようと、
いつだって、受け取り続けている。
そのことを心のどこかで知っていて、
そこに神様の存在を、やはり心のどこかで予感し続けてきたからこそ、
お天道様には、神様には
足を向けて寝られない、というわけですね。
「すでに恩恵を得ている」という「神の目」を育むと、
きっと次のような、良いことがありそうです。
たとえば、「変化したい」と望むとき。
何かをするから、変化する(認められる)というベクトルよりも、
「すでに変化している(認めている)」ことを知る、という「神の目」を選択することで、その選択そのものが、本当の変容になる。
または「瞑想しても、何も変わっているように見えない!」と感じるとき。
どうか、"瞑想する→変わる"という構図すら投げ捨てて、
「瞑想をしているそのときに、すでに瞑想による恩恵を100%得ている」ことに、「瞑想をしたあとの日常も、瞑想による恩恵が、すでに100%浸透している」ことに、無邪気に、素直になってみて下さい。
その繰り返しが、やがて目を開けたときに映る世界で、
たくさんの「すでに・・」を発見することとなり、
すべてがその通り自然に、豊かに、運んでゆくのだと思います。
ありがとうございました!